キリスト 教 同性愛。 仏教の慈悲とキリスト教の愛の違い

同性婚は聖書の教えに反するの? そう思う人に読んでほしい。

キリスト 教 同性愛

仏教の慈悲とキリスト教の愛の違い は「 愛の宗教」という看板を掲げています。 それに対して仏教では 仏心とは慈悲の心だと説かれています。 でいわれる愛と、仏教で説かれる慈悲はどこが違うのでしょうか? 愛の特徴 まず、愛についてですが、 「 愛は惜しみなく与える」と言われます。 きっとあなたは、誰かから 「あなたのためなら命を捧げます」 と言われたことがおありでしょう。 こう言われると、大変嬉しいものです。 ところが、その分、 「 愛は惜しみなく奪う」 のです。 もしあなたの愛する人が、他の人と話をしていたらどう感じますか? にこにこと会話して、どうも心と心の交流をしている感じがする。 これはえらいことです。 「今日は一緒に、食事をしている! あの人はもう私のもののはず。 それなのに…… 私が独占したい!」 このように、愛は相手の自由を奪うのです。 しかし、どんなに相手を独占したくても、感情は一時的ですから、相手の愛する感情も続かず、心が離れてしまいます。 心までは束縛できないのです。 それで、昔なら心中したのです。 「相手の心までも完全に100%自分のものにしたい! 相手を殺して、自分も死ぬ」 ということです。 愛は惜しみなく奪うのです。 キリスト教の愛は? イエスの汝の敵を愛せ の愛はどうでしょうか? キリスト教を説いたイエスが出現するまでのユダヤ教では、律法が重視されていました。 律法は神の意志にもとづく神と人間の契約なので、律法を厳格に守って生きねばならないとされました。 ところが律法で他人を裁き、傲慢になり、神とも他人とも関係が悪くなるので、イエスは、愛が律法の核心でなければならないと教えました。 そして、キリスト教徒は、神を愛し、隣人を愛さなければなりません。 イエスの有名な言葉に「 汝の敵を愛せ」というものがあります。 さらに「 右の頬を打たれたら、左の頬を差し出しなさい」という有名な言葉もあります。 言葉としては大変美しいですが、本当にそんなことが、凡人に実行できるでしょうか? 実際、イエスが敵に頬をぶたれたことがあります。 その時、イエスはどうしたでしょう? 聖書には、イエスはもう片方の頬を差し出すのではなく、「 敵をなじった」と、こう記されています。 下役のひとりが、「 大師祭にむかって、そのような答をするのか」と言って、平手でイエスを打った。 イエスは答えられた、「 もしわたしが何か悪いことを言ったのなら、その悪い理由を言いなさい。 しかし、正しいことを言ったのなら、なぜわたしを打つのか」 (『口語 新約聖書』ヨハネによる福音書・18章) の心で頭に血が上り、汝の敵を愛することはすっかり忘れてしまっているようです。 キリスト教の神の愛の特徴 さらに、のは愛の神と教えられています。 しかもその愛は、神学では「 アガペー」といわれ、無償の愛とか、無条件の愛、絶対の愛、無限の愛などといわれます。 では、実際のキリスト教の神は、本当にそんな愛を実現しているのでしょうか? ところが『 旧約聖書』を読んでみると、 「 神は人が神を信じなくなると怒って火でも山でも大地でも産物もみな焼いてしまう」 とか 「 我エホバ女の神は嫉(そね) む神なれば、我を悪(にく) む者に向かっては父の罪を子にむくいて三四代におよぼし」 などと記されています。 有名なノアの方舟では、ノア以外の、神を信じなくなった人たちを全員、洪水で殺してしまいます。 「 アガペー」といわれる無条件で限りのない愛を備えたキリスト教の愛の神は、なぜ「 大量虐殺」を行うのでしょうか? どうもキリスト教の神の愛は、神を信じることが条件のようです。 そして、信じなくなると殺してしまいます。 ですからお釈迦さまは、このことを、 「 愛より憂いを生じ、愛より畏れを生ず、愛を離れたる人に憂いなし、何のところにか畏れあらん」 と『 法句経』に説かれています。 仏教では、「 愛」は、愛着やのような、苦しみを生み出すであると教えられているのです。 キリスト教の神の罪深い人への対応 『旧約聖書』の創世記に記された有名なエピソードにソドムという都市が出てきます。 その都市の人々が、みだらな行いにふけり、罪が深くなっていたために、神は確かめようとします。 そこで人間の一人が、正しい者がいれば滅ぼさないで欲しいとお願いします。 ところが神は、ソドムはやはり罪深いとして、天からの硫黄と火を降らせ、滅ぼしてしまいます。 その罪は同性愛であったとされ、キリスト教で同性愛を禁じる根拠になっています。 同性愛のことを最近では、LGBTなどと言われますが、この中には、性同一性障害など、生まれつきの人もあります。 現代では、世界的に同性愛ををしない方向に向かっていますが、神は同性愛を差別し、罪が深いとして殺してしまいます。 神はなぜわざわざソドムという都市やそこに住む人々を造り、自ら差別して殺すのかも分かりませんが、それが無差別の愛、絶対の愛、無限の愛をうたっている神の、罪深い人への対応です。 ところが仏教では、罪の重い人ほど憐れに思われるのが仏の慈悲です。 神のように罪深い者を殺したり、罰を与えたりすることは仏様にはありません。 仏の慈悲は、深い罪によって苦しむ者にひとえに重くかかります。 逆巻く、罪深くの重い者こそが救いの対象であり、それが仏の慈悲なのです。 では、仏教で愛とはどういうものだと教えられているのでしょうか? 『中阿含経』や『増一阿含経』など、多くのお経にこのようなことが説かれています。 仏教で愛とは? お釈迦さまがコーサラ国の舎衛城の郊外にある、におられた時のことです。 一人の商人が子供を亡くして放心状態でふらふら歩いていると林の中でお釈迦さまとばったり出会いました。 「 そなたはうろつな目をしているが、どうしたのか?」 お釈迦さまが尋ねると、 「実は、先日子供を亡くしまして、今ごろと思うと、仕事も手に着かないのです」 「 そうであったか。 そのような悲しみや苦しみは、愛から生まれるものなのだ」 「愛からですか?」 驚いた商人は、お釈迦さまを見上げました。 「 その通りだ。 愛から苦しみが生まれるのである」 「何を言われますか。 愛から生まれるのは喜びに決まっている。 そんなこと誰も信じないだろう」 商人は、怒って祇園精舎を立ち去り、気晴らしにカジノへ行きました。 友達に話すと 「 憎しみから苦しみが生まれるのなら分かるが、釈迦というのはとんでもないことを言うやつだ」 と同意します。 「 もちろんだ。 妻を愛し、子供を愛し、父母を愛し、友達を愛してこそ、この世は楽しいのだ」 こうしてお釈迦さまの教えは、町中に広がり、やがてコーサラ国の王様の波斯匿(はしのく)王の耳に入りました。 王様は妃に、「聞いたか?釈迦は苦しみは愛から生まれると言っているそうだ」というと、 「 王様、お釈迦さまがそう言われるのなら、それは間違いありません」 と答えます。 「お前はよほど釈迦の教えを信じ込んでいるようだな」 「 仏語に虚妄なしといわれて、お釈迦さまはをつかれません」 「ならばお前は私を愛しているのか」 「 もちろんでございます」 「それなら苦しんでいるか」 「 喜んでおります」 「ならば釈迦は間違っているだろう」 「 いいえ、そこには何か深い意味があるのだと思います」 それを聞いた波斯匿王はすっかりだし、 「もうよい、不愉快だ、下がれ」 どこかへ行ってしまいました。 妃は、自分の部屋に戻ると、 「 苦しみは愛から生じるという件で王様の機嫌を損ねてしまった」 と召使いに言います。 「ああそのことですか。 それはお釈迦さまを陥れるために、誰か恨みを持つ者が言いふらしたのでしょう」 「 では、それが本当かどうか、お釈迦さまに直接確かめてきてください。 もし本当なら、どういう意味なのか詳しく聞いてきてください」 「かしこまりました」 召使いは、すぐにを訪ねます。 召使いは首尾良くお釈迦さまに面会できたので、早速お尋ねすると、 「 それは間違いなく私の言ったことである」 と言われます。 あきれた召使いは、あざ笑いながら 「 愛から苦しみが生まれるというのはどういう意味なのでしょうか?」 と重ねてお尋ねすると、 「 この舎衛城で、以前、ある女性のお母さんが亡くなりました。 その女性は、私の母を見ませんでしたか?と叫びながら町中をさまよって、最後にはおかしくなってしまいました。 このように、苦しみは愛から生じるのです」 お釈迦さまは、さらに、子供を失った母親、父を失った子供、夫を失った妻の例をあげて、愛するが故の悲しみを説かれます。 これを仏教では愛別離苦といって、の一つとして教えられています。 召使いの口元からは笑いが消え、真剣に耳を傾け始めました。 「 またある時、ある女性の家族が、彼女を恋人から引き離して、別の金持ちの男と結婚させようとしました。 すると、その女性は恋人に相談し、今となってはどうにもならないことを夜通し歎いた末、引き裂かれるくらいなら一緒に死のうといって、恋人が女性を斬り殺し、その恋人もしました。 苦しみが愛から生じるというのはこういうことです」 そこまで聞くと、召使いは、を聞いたと目を輝かせてお城へ戻り、お妃様に一部始終を報告しました。 それを聞いた妃は、王様の部屋に訪れます。 「 王様、私たちの娘を愛しておいでですか」 「当たり前だ」 「 では、王女が万が一亡くなったら、苦しまれるのではないでしょうか」 「なんだなんだ、さっきの釈迦の教えの蒸し返しか」 また機嫌が悪くなりかけましたが、思い直して口を閉じました。 しばらく眉をよせて考えたあと、ため息をついて、 「 お釈迦さまの言葉は真実だった」 と言いました。 「 親子でもやがて必ず別れなければならない。 その別れが辛いのは愛があるからだ。 私の愚かな目が開かれた」 こうして波斯匿王は、仏教を聞くようになったといわれます。 このように仏教では、愛は苦しみを生み出すと教えられますので、愛ではなく慈悲が説かれます。 仏教の慈悲とはどんなことなのでしょうか? 仏教の慈悲とは? 仏教は慈悲の教えといわれますが、「 」とは、「 抜苦与楽(ばっくよらく)」です。 このことを曇鸞大師は、こう教えられています。 「 苦を抜くを『慈』という、楽を与うるを『悲』という」(『浄土論註』) 「 慈(じ)」とは、 抜苦(ばっく)の心 「 悲(ひ)」とは、 与楽(よらく)の心です。 「 抜苦」とは、苦しんでいる人を見ると、じっとしておれない心です。 苦しんでいる人を見ると、こういう心が起きます。 子供が苦しんでいると、親は病院に連れて行ったり、何とかを抜いてやりたいと思います。 放っておくのは、無慈悲な人です。 「 与楽」とは、を与えてやりたいという心です。 よく「うちの、お母さん、魚の頭やしっぽが好きなんだよ。 魚で一番おいしいのは、真ん中の肉の部分なのに、全部僕にくれて、頭やしっぽばっかり食べている。 変なお母さん」 と言う子供がありますが、お母さんは、子供に一番おいしい、栄養のあるところを食べさせてやりたいと思うのです。 ところが私たちは、の心がありますから、な人を見ると、ねたみ、不幸な人を見ると、喜びます。 「 慈悲」は、その逆で、苦しみをとってやりたい、なくしてやりたい、を与えてやりたい、というのが「 抜苦与楽(ばっくよらく)」です。 慈悲と愛の本質的違い しかも、慈悲は一方的であって、 「これだけするから見返りにこうしてください」 というものではありません。 「慈悲」と「愛」とは、本質的に違うのです。 仏教には、慈悲以外に教えられていません。 あなたの苦しみを抜き、あなたに本当の楽しみを与えるのが仏教の目的です。 では仏教では、苦しみの原因はどんなものと教えられ、どのように苦しみを抜くのでしょうか。 もっと詳しく知りたい方は、メール講座を受講してみてください。 メニュー•

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キリスト 教 同性愛

ゲイの牧師さんに同性愛についてのお話を聞いてきました。 私はアメリカにあるプロテスタント系のクリスチャンスクールで高校最後の2年間を過ごしました。 その頃はもちろん自分がゲイであることなど誰にも言ったこともなければ、自分でも認めたくなかった時期でもありました。 そのような中で、保守的なキリスト教のゲイに対する教えを叩き込まれた事もあり、高校を卒業後も教会へは通ってはいましたが、ゲイである自分は教会から歓迎されていないと感じていました。 2001年にオランダが同性婚制度を導入し、次々にヨーロッパの各国が同性婚、またはそれに代わるシビルパートナーシップを導入し始めましたが、アメリカでは2015年になるまで同性婚の導入が実現されませんでした。 その大きな理由が 保守派のキリスト教徒たちでした。 彼らは聖書に書いてある言葉そのままを信じ、同性愛者を非難し続けています。 また、2015年以降もそのようなクリスチャンの同性婚への批判や反発行動が多く報じられています。 このような情報から多くの人は、全てのプロテスタント系クリスチャンがLGBTに対して批判的だと思うようになっているかもしれません。 2014年の冬からベルリンで暮らし始めた私は、ふと、 ドイツのように同性婚ができる国に住むクリスチャン達は同性愛者についてどのように思っているのか疑問に思い始めました。 今回、ご自身もゲイであることを公表し、新宿コミュニティー教会で牧師をされている、中村吉基牧師にお話を伺える機会をいただきました。 中村牧師へのインタビュー 私:本日はお時間をいただきありがとうございます。 まずはじめに、日本人にはあまりキリスト教に関して馴染みがないのですが、神父さんと牧師さんの違いについて教えていただけますか? 中村牧師:簡単に言いますと、 神父とはカトリックの聖職者のことを言います。 正式には司祭と言いますが、神父さんと言うのは親しみを込めた呼び名ですね、日本のカトリックの方は、神父様とおっしゃいます。 私は牧師なんですが、 牧師は(宗教改革で始まった)プロテスタント教会の教職者のことです。 私:そうなんですね。 牧師さんは教職という立場なんですね。 そういえば、中村牧師は以前高校で教師もされていたんですよね?いつ牧師さんになろうと思われたんですか? 中村牧師:大学卒業後は高校の教師をしていましたが、記者に転職し、その仕事が楽しくなってきてしまったんですね。 キリスト教の仕事をするよりも、マスコミの世界で生きたいとか、東京にいるとゲイライフってとても楽しいですよね。 今のようにSNSなんかもない時代でしたけれど、2丁目に行ったり、仲間と交わっているのが非常に楽しいという頃で、徐々に牧師になる希望を遠ざけてしまいました。 ところが、その頃肺炎にかかって、死にそうになってしまったことがあったんです。 それまでは教会にも毎週行っていたのかなぁ?病気になったのが神様からの問いかけのように感じ、病気が癒されたのであれば、これからの人生を神様のために、人のために捧げていこうと思ったのが30歳くらいでした。 私:そんなことがあったんですね。 中村牧師はいつ頃、自分がゲイであると気づかれたんですか? 中村牧師:同性に惹かれるようになったのは中学生になったばかりの頃でした。 でも、その時はゲイというセクシャリティで生きていくとは思っていませんでした。 大学を卒業して社会人になった時に、きっと女性と結婚して、家庭を築くのだろうなと思っていました。 というのは、当時の中学生、高校生が読んでいた雑誌に読者の悩みに応えるコーナーがあったのですが、そこで答えていたクリスチャンのドクターが同性に惹かれることは一過性のものだと書いていたんですね。 「あなたが成人する頃にはそれは治ります」というのが当時の論調だったんです。 なので、私もいつか同性に惹かれることはなくなっていくのだろうと思っていました。 私:なるほど。 当時はそういう考え方が一般的だったんですね。 現在とはだいぶ違いますね。 教会ではどうでしたか?教会に通っていて、ゲイであるがために教会から歓迎されていないと感じたことはありましたか? 中村牧師:まず、ゲイのことが教会で話題になることがありませんでした。 日本の教会で話題になるようになったのは、90年代の終わりで2000年になる頃でした。 それはゲイの牧師が出てきたからでした。 80年代のキリスト教会ではゲイの事が話題に出ることはまずありませんでした。 なので、自分が歓迎されていないと感じたことはありませんでした。 私:そうなんですね。 私は1998年から2004年まで留学先のアメリカでプロテスタント系の教会に通っていたのですが、その教会ではゲイに対してのバッシングがすごかったので、ゲイであることはものすごい悪いことだとずっと思っていました。 中村牧師:2015年の東京レインボープライドで私たちの教会は日本の教会としては初めてブースを出展しました。 その際にアメリカのテレビ局のインタビューを受けました。 その記者さんの質問内容から、なんとなくこの人自身が教会を歓迎していないなと感じたんですね。 そのテレビ局の記者さんによれば、 プロテスタントという言葉自体が反LGBTというように捉えてしまっているように感じました。 私:そうですね。 私が通っていた教会が正にそうでした。 なので、リベラルで教養のある多くのアメリカ人がプロテスタント系の教会に対して良いイメージは持っていない気がします。 中村牧師:私は非常にリベラルな教会で育ってきましたので、いろいろな人がいてもいいという教会で育ってきたんです。 イエス・キリストは同性愛に関して何も言っていないんです。 なので、キリスト教は同性愛行為を禁じているのか?なぜイエスが言っていないのにそう思うの?っていうことです。 リベラルな教会では「異性愛のカップルが真っ当に家庭を築きあげていくことが非常にキリスト教的」なんてことは決して言いません。 ですが、無言の圧力というか、教会にそういう家族が多かったりすると、自分もそうなっていくのかなとか、教会がメッセージを発信していなくても、教会に来ている人たちからそういう圧力を感じることはありました。 ですが、実際に日本でも保守的な教会の人たちは平気で礼拝のメッセージの中で「同性愛はいけません」と言います。 でも、私自身は幸いそういう教会で育ってこなかったので、そういう教会があること自体知らなかったです。 私:そうなんですね。 教会によって、こんなにも見解が違ってしまうんですね。 私が通っていた教会では同性愛を最大の罪だと話していたんですが、その点で中村牧師はどのように信者さんへご説明されていますか? 中村牧師:聖書には同性愛が最大の罪とは書かれていません。 しかし文脈を無視して同性愛バッシングに使われる箇所はあります。 でもそれはリベラルな教会での理解では現代におけるホモセクシュアリティに関してのことを言っているわけではありません。 たとえば旧約聖書のレビ記に「女と寝るように男と寝てはならない」と記されてあります。 これは当時の異教の世界で神殿にお参りした際に、少年の男娼と性交するという迷信的な慣習があったのです。 少年が射精することが豊作(実り)の象徴となっていました。 その迷信に対して、ユダヤ教側からの批判だったのです。 ですから、そんな迷信に囚われなくても、神はあなたたちのことを必ず守り、導いてくださる、ということを言っているのです。 ただ、十字軍の時代になって、イスラム教徒とキリスト教徒とが戦い始め、兵隊がたくさん必要になったことで、 どちらの勢力も多産をすすめ、勢力拡大を強いられました。 生産性のないパートナーシップは聖書において否定されているという、文脈を無視した解釈が行われるようになりました。 これが今に至るまで一部の教会では信じ続けられているのです。 私:そうだったんですね。 初めて知りました。 その当時の時代背景や習慣などもあり、本当の意味を理解するのは難しいですね。 それでは現在、日本キリスト教団ではゲイやLGBTについてはどのような立場をとっているのですか? 中村牧師:私たちの教会が属している日本キリスト教団は戦時下に日本のプロテスタント教会が国策によって合同した教団です。 合同教会ですから、そこにはさまざまな伝統を持つ教会が加入しています。 同性愛に対しても多様な意見や主張があり、現在までには見解を公にはしていません。 新宿コミュニティー教会について 私:新宿コミュニティー教会とはどのような場所ですか?ゲイの私たちが行っても大丈夫ですか? 中村牧師:はい、誰でも歓迎します。 私:どのような方々が教会に来ていますか? 中村牧師:12年間、教会の活動を続けていますと、その時々で構成は変わってきていますが、私たちの教会は他の教会に比べると若い方が多いです。 教会を始めて7,8年は私の年齢を超える方は来ませんでした。 今ではお年寄りも集っています。 この12年間に500人以上が私たちの教会へきました。 ですが、なかなかメンバーにまでなる方が少なく、私のカウンセリングだけを受けてご自分の教会に帰っていく人たちもいます。 幸いなことに2015年はすごく教会にいらっしゃる方が増えた年で、もう10年間くらいずっと、7、8人の教会だったんですけれども、現在は15、6名に増えて、そこからメンバーが増えるのではないかと期待しています。 私:教会へ初めて来られた方にはどのように接していますか? 中村牧師:こちらからセクシュアリティを聞くことは絶対にしません。 実は今、教会で聞くことはお名前だけです。 本名でなくてもいいんです。 日本の教会では礼拝に来てくれた人数をカウントするために、受付で名前を書いてもらうのが通常です。 教会によっては、メールアドレスや電話番号、住所を聞いたりしますが、私たちの教会ではそのようなことは一切していません。 個人情報の問題もありますので、聞かないことにしています。 初めて教会に来られた方がどんな方か知りたいとは思いますが、あちらから言わない限りは出身地や、特にセクシュアリティに関しては聞かないようにしています。 それは、教会へ来られている他の方へも徹底的に研修をしているくらいです。 私:現在教会にはLGBTの方はどのくらいいらしていますか? 中村牧師:上記で申し上げたように、セクシュアリティをお尋ねしないので具体的な数字はわからないのですが、ざっくりとした感じでは、LGBTとヘテロの人が半々です。 私:ホテルの会議室を教会にされているそうですが、それはなぜですか? 中村牧師:自前の建物を持つ資金がないからです。 私は教会というのは建物じゃないと思っています。 教会というのは教会に来ている人、みんなが教会なのだと思っています。 「旅する教会」と表現してもいいかもしれませんが、私自身が動いています。 建物を持たない自由もあって、比較的小回りのきく牧師と言いますか、何かお悩みがあるならどこでも行きますよという姿勢が取れてます。 私は今もそうなんですが、ライター/編集者の副業をしながら、教会活動を支えています。 そのこともあり、教会に常駐していることができないし、ほぼ日曜日の礼拝でしか使わないので、それであれば、近くのレンタル会議室などを利用して、そこに来てもらった方がいいということです。 私:日本では同性婚が認められていませんが、同性愛者が教会で結婚式を行いたいと申し出た場合に、結婚式を行ってもらうことは可能ですか? 中村牧師:はい、できます。 多くの場合、教会ホームページからお問い合わせを頂きます。 特に女性からのお問い合わせが多いです。 事前にお目にかかって打ち合わせをします。 キリスト教における結婚観などもお話しします。 若いLGBTへのメッセージ 私:最後に若いLGBTの方へメッセージはありますか? 中村牧師:日本の若いLGBTの間でも自殺をする人が多いです。 私はさまざまな大学や高校で講演をさせていただいてるんですが、大学の授業に行ってもその中に当事者はいると思っていますので、その時に必ず言うんです。 「何か犯罪をするような悪いことをしたんですか?」と、何もそんなことをしていないのに、どうして自ら死ななくてはいけないのか。 それは本当におかしい。 神様から与えられた命を大切にしてください。 それぞれに与えられたセクシュアリティはこれも神様からのお恵みなのですから、それは恥ずかしいものでもないし、包み隠さなくてはいけないことでもないです。 異性愛者のセクシュアリティと私たちのセクシュアリティは本質的には変わらないわけですから、それを何も後ろめたく思わなくていいことをいつも伝えています。 私:ありがとうございます。 今日はお話を聞けてとても勉強になりました。 また、間違ったクリスチャンのイメージを持っていたことがわかり、心がなんだかすっきりしました。 インタビューを終えて 今回、中村牧師にお話を伺える機会をいただき、 私自身がキリスト教への偏見があったことを感じました。 たくさんの教派があるキリスト教は聖書の解釈の仕方により、信じ方も変わること、キリスト教信者だからということだけでゲイに対して理解がないわけではないことを知ることができました。 マイノリティーの方や社会の弱者と寄り添って生きるのが教会のあり方だと語る中村牧師は副業で得たお金も教会に入れ、全てを教会と人々のために尽されています。 以前保守的な教会に通っていた信者の方からセクシュアリティーについて相談を受けていたことがあり、その方が自殺をする恐れがあったため、札幌まで自費で行ったこともあるといいます。 あれはしてはいけない、これをしてはいけないという保守的な考え方ではなく、全ての人を受け入れる温かい姿勢が話をしていてもとても心地よく、そこには現代人がどこかで忘れてきてしまった人と人との関わりを思い出させてくるような気がしました。 それは多くのLGBTと過ごされた経験や人生の中でいろいろな経験をされてきた中村牧師だからこそできることだと思いました。 中村 吉基 (なかむら よしき)牧師 1968年生まれ。 日本聖書神学校卒業。 日本キリスト教団 牧師。 もっと読む.

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第26話 性的マイノリティーとキリスト教 : yomiDr./ヨミドクター(読売新聞)

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きょう24日はクリスマス・イブ。 真言宗の私はクリスマスに興味がありませんが(苦笑)、虹色百話としては、性的マイノリティーとキリスト教について触れないわけにはいきません。 欧米の同性愛者差別の背景には、キリスト教の影響があげられます。 米大統領選でしばしば争点となった同性婚は、つねにティーパーティーなど宗教右派の攻撃対象になってきました(今年の連邦最高裁で合憲判決が出ましたが)。 ローマ・カトリックも、フランシスコ教皇が改革に意欲を見せましたが、10月の世界代表司教会議で罪とする姿勢を崩していません。 聖書には、いくつか同性愛を罪とすると読める記述があります。 女と寝るように男と寝る者は、両者共にいとうべきことをしたのであり、必ず死刑に処せられる。 彼らの行為は死罪に当たる(レビ記 20章13節)。 男も、女との自然の関係を捨てて、互いに情欲を燃やし、男どうしで恥ずべきことを行い、その迷った行いの当然の報いを身に受けています(ローマの信徒への手紙 1章27節)。 正しくない者が神の国を受け継げないことを、知らないのですか。 思い違いをしてはいけない。 みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、男娼、男色をする者……は、決して神の国を受け継ぐことができません(コリントの信徒への手紙一 6章9~10節、一部略)。 (いずれも日本聖書協会『聖書 新共同訳』による) また、創世記にある、神がソドムの町を滅ぼした話も、同性愛など性的 放埓 ( ほうらつ ))が原因とされています。 こうした記述は保守的な教派では文字通りに受け止められ、同性愛者を忌避し、排斥する根拠となってきました。 判例百選にも載る「府中青年の家裁判」(1991~97)については、いずれくわしくご紹介しますが、その発端となった東京都の青年の家での出来事では、まさにこの聖書の記述が持ち出されました。 青年の家の規則に従いリーダー会で自己紹介した同性愛者の市民団体のメンバーに対し、同宿のキリスト教団体のメンバーがすれ違いざまに「こいつらホモなんだぜ」などと発言。 他の団体からも複数の嫌がらせがあったことをふまえ、翌日リーダー会が再度開かれました。 そこで認識を問われたキリスト教団体は上記のレビ記の一節を読み上げ、「同性愛者は正しくない道を歩んでいる人びとです」と、当の相手に向かって発言したのでした。 キリスト教会も変化する キリスト教は本当に同性愛を罪としているのでしょうか? ジョン・ボズウェルの『』(国文社、1990年。 原著、1980年)は、こうしたときの基本書です(著者のボズウェルは、17言語に通じた天才的研究者でしたが、1994年にエイズ合併症で亡くなっています。 享年47)。 12世紀以後、中世ヨーロッパでは神聖ローマ帝国の強権化や外国人への恐怖を帯びた十字軍運動で、社会の寛容度が低下。 現代のヘイトスピーチではありませんが、この時期からユダヤ人、異端者、高利貸し、同性愛者といった人びとが攻撃の対象となった、と説きます。 中世の法律書で同性愛行為は死罪に値する罪であると規定されるようになり、古典古代と仰がれたギリシャ・ローマの同性愛を扱った文学も消滅します。 現代のキリスト教会でも宗教上の罪とする考えは根強いものの、現代人権思想の高まりとともに変化もあるようです。 古代宗教史や聖書学などの新しい研究成果を用いて、先にあげた聖書の記述はかならずしも現代的な意味での同性愛(者)について触れているのではないとする見解もあります。 また、同性愛行為に及べば宗教上の罪となるが、同性愛の欲求を持っているというだけでは罪ではない、など、中間的な立場もあります。 性的マイノリティーもまた神が創造したものとして積極的に肯定し、そのための礼拝や布教を行っている教会も、アメリカのメトロポリタン・コミュニティー・チャーチを初めとして、世界各地にあります。 カミングアウトする牧師たち 日本のキリスト者は、この問題をどう受け止めてきたでしょう。 社会を反映して、教会関係者でもこれまで性的マイノリティーの存在を人権問題として認識する人は多くはなかったでしょう。 むしろ従来の聖書解釈にもとづき、罪ととらえていたのではないでしょうか。 しかし、自分のマイノリティー性に悩んだ当事者が、さまざまな機縁からキリスト教の信仰に救いを求めた事例はけっして少なくなかったでしょう。 私の実感でも、ゲイコミュニティーで出会った人で、クリスチャンホームの生まれでないにもかかわらず、みずからキリスト教に入信した人は、一般的な日本人での割合より高いのではないかと思われます。 そうした人びとが、自分とおなじ性的マイノリティーが、自身がよりどころとする聖書の記述を用いてキリスト教団体によって非難された話を聞いたとき、どれほど困惑し、悲しんだかは、想像にかたくありません。 しかし、90年代の当事者運動の高まりは、キリスト者のなかにも波及し、やがてゲイ、レズビアン、トランスジェンダーであることを公表して牧師などの資格を得て、性的マイノリティーのための礼拝会を開催する牧師も現れました。 毎年、名古屋で開催されるコミュニティーイベントでは、同性結婚式(平等結婚式と呼んでいますが)の司式を務める「神父さま」(教派名や性別非公表)もいます。 性的マイノリティーとキリスト教に関する書籍も、すでに多数出版されています。 キリスト教界での性的マイノリティーの受け入れには、まだ厳しいものがあるようですが、明日のクリスマスは、セクシュアリティーにかかわらず、この世に生けるすべての人の存在が祝福される日であることを、真言宗の私も(笑)信じています。 連載開始以来、ご高覧ありがとうございました。 来週は大晦日なので休載、新年は1月7日更新分より再開します。 みなさま、良いお年をお迎えくださいませ。 日本のキリスト者(私もその一人ですが)のLGBT問題への姿勢として、欧米等のキリスト教文化圏かつLGBT人権先進国と比較すると、まだまだ自分独自... 日本のキリスト者(私もその一人ですが)のLGBT問題への姿勢として、欧米等のキリスト教文化圏かつLGBT人権先進国と比較すると、まだまだ自分独自の意見をもたない・もてない・もとうとしない人が多い気がします。 例えば、同性婚についてどう思う?とたずねても、「私の所属する教会(宗派)の同性愛についての見解はこうこうなので、私もこうこうです」と答えるだけで、会話はそこでストップ。 このような態度は、実はキリスト者自身も日本社会ではマイノリティーであるという事実が関連している気がします。 自分の所属教会の公式見解からずれるようなことを言うのは、マイノリティーである自分の立場をよけいに弱め、そのよりどころである組織を裏切ることになってしまうように感じる人が多いのではないかと。 けれど今回の記事にもあるように、LGBTの牧師などが少数ながらも登場しはじめて、所属教会の方針とは無関係に自分独自のLGBTフレンドリーな意見をもつキリスト者が増えていったらいいのになぁ~と期待しているのですが・・・。 キリスト者の最高の先生はイエスです。 群集がある女性を石打ちにしようとしたとき、イエスがあることを言ったので石を投げようとする人がいなくなった話は、これを読んでいるキリスト教信者の方はご存知ですよね?この教えからだけでも、キリスト教界の一部のLGBT排斥はキリスト教的でない、と言えると思いませんか?良いクリスマスを! 仏教ではどうなのでしょう? 真言密教の創始者空海はゲイだったと言い伝えられていますが、お坊さんに訊くと、意見は様々です。 神道でも意見は分かれるようですね。 結局は宗教よりも社... 真言密教の創始者空海はゲイだったと言い伝えられていますが、お坊さんに訊くと、意見は様々です。 神道でも意見は分かれるようですね。 結局は宗教よりも社会的な状況が影響していると思います。 宗教なんて平和博愛主義を唱えながら、戦争を支持することもあります。 普遍的なものではないのです。 日本においてキリスト教は結婚式とクリスマスのためにあるようなものでいいんじゃありませんか? だからこそ遠藤周作の沈黙のような小説が生まれたのです。 来年、映画が公開されるそうですね。

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