反骨の考古学者 rokuji。 Eテレ『反骨の考古学者 ROKUJI』を見ました

佐古井隆之

反骨の考古学者 rokuji

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反骨の考古学者 rokuji

NHKの『ETV特集』で反骨の考古学者の 森本 六爾 もりもと ろくじ さんが特集 されるそうです。 番組内では再現ドラマが放映され、 お笑い芸人ハライチの岩井勇気さんが 森本 六爾さんを演じるとのこと。 森本 六爾さんの人生はかなり大胆? だったそうで、ww 戦前の女流作家林芙美子とも交流があり 松本清張の短編小説『断碑』の主人公 木村卓治のモデルにもなった方でも あるそうです。 そんな森本 六爾さんは、若干32歳で お亡くなりになられているそうですが、 死因はなんだったのか?またお墓の場所は 何処にあるんでしょうか? 今回は反骨の考古学者、森本 六爾さんの プロフィールや経歴、活躍を支えた妻 嫁 ミツギ夫人の奮闘や死因やお墓の場所など 松本清張『断碑』について調べてみたいと 思います。 スポンサードリンク 出典:『ETV特集』公式サイト 名前 森本 六爾 もりもと ろくじ 生年月日 1903年3月2日 没年月日 1936年1月22日 出身地 奈良県磯城郡織田村大泉 現在:奈良県桜井市 職業 考古学者 森本 六爾さんは明治36年 1903年 に 奈良県に生まれ育ちます。 大正9年 1920年 に旧制畝傍中学校 現在の奈良県立畝傍高等学校を卒業され、 小学校の代用教員として採用され、 教師として生活をスタートされます。 そんな森本 六爾さんですが、 大正13年 1924年 に上京されると、 東京高等師範学校の校長三宅米吉のもとで、 歴史教室の副手 助手 として勤務されます。 ところが、3年務めていた副手 助手 ですが、 三宅米吉さんが亡くなったことを機に退職 されます。 さて、そんな森本 六爾さんですが、 ここまでだとあまり考古学者として 活躍はされていませんね。 ? 森本 六爾さんが『反骨の考古学者』と 言われるようになったのは、 どういった訳だったのでしょうか? スポンサードリンク 森本 六爾さん『反骨の考古学者』として活躍 さて、森本 六爾さんについて 『ETV特集』の予告では、 弥生研究に生涯をかけた、伝説の考古学者の物語。 男の名は森本六爾(1903-36)。 アカデミズムに反抗する強烈な人格。 真実を求めるせい絶な執念。 埋もれていた六爾の野帳ノートが調査され、新事実が続々と浮かび上がっている。 大胆で創造的な弥生研究を成し遂げた原動力とは何だったのか?共に闘った妻・ミツギの存在にも注目。 32歳で亡くなった波乱の生涯にドキュメンタリーとドラマで迫る。 出典:『ETV特集』公式サイト とのことですが、 よくわかりませんww 早速森本 六爾さんが反骨の考古学者と 呼ばれるようになった理由について 調べてみたいと思います。 森本 六爾さんは東京高等師範学校の校長 三宅米吉さんのもとで歴史の勉強をされて いたそうです。 そんな森本 六爾さんは1927年 昭和2年 ご自身で『考古学研究会』を設立されます。 一般的に考古学の研究となると、 大学の教授などエライ方がされるもんだと 思っていましたが、森本 六爾さんは 在野というかアマチュアの方たちだけで 考古学の研究をされていったそうです。 確かに反骨かもですねww 1929年 昭和4年 には東京考古学会と 名称を変更され、雑誌『考古学』を創刊 されちゃいます。 めっちゃ、スゴいですね。 ww そんな森本 六爾さんは、弥生時代について 特に研究されており、当時まだ弥生時代に ついて今ほど判明していなかったそうです そんな弥生時代について森本 六爾さんは すでに弥生時代には弥生土器を用い、 農耕文化を形成していたと紹介していった そうです。 ww 当時の考古学の教授の先生のかたが、 苦虫つぶしたような顔が目に浮かびます ww 当時、森本六爾さんが唱えた弥生時代に 稲作・農耕文化があったということは 考古学界では完全に無視されていたそう です。 また、青銅器や古墳など時代の墳墓研究 にも意欲的に取り組んでいたそうです。 実は、自分も最近知ったのですが、 日本の歴史は、西暦600年代、つまり 聖徳太子前後以前の歴史について、 結構な範囲がわかっていないそうです。 それ以降の歴史については漢字などの 文字文化の輸入や、中国との交易などで 歴史の整合性は取れているそうですが、 それ以前についての歴史は土器や古墳など 現在に残った遺跡などから少しずつ判明 しているそうです。 とはいえ、当時ほとんど判明していなかった 弥生時代について農耕をしていたことを 紹介するってかなり意欲的に活躍されて いたんですね。 ちなみにこちらが森本 六爾さんの著書 ですね。 まぁ、なかなか、簡単に読もうという ものではないでしょうがww 興味がある方はぜひご一読を。 スポンサードリンク 森本 六爾さんの晩年や死因・墓は? さて、そんな森本 六爾さんですが、 わずか32歳でお亡くなりになられて いますが晩年はどうだったのか? 森本 六爾さんは、反骨の考古学者として 活躍されつつ、1931年にはフランスに 留学されたそうです。 ちなみにこの時期に戦前から戦後まで 活躍した女流作家の林芙美子さんと交流 を持ったそうです。 さて当の森本 六爾さんですが、なんと そのフランス滞在中にある病気に罹って しまい、帰国を余儀なくされてしまいます そして帰国後は鎌倉で病気の療養に 務めつつも、病床で考古学の研究を続け 1936年 昭和11年 にご自宅でお亡くなり になってしまいます。 森本 六爾さんの死因につながった病気 ですが、結核だったそうです。 現在でこそ、そんなに恐る病気では ありませんが、当時結核は不治の病 だったそうです。 実は弥生時代に稲作・農耕文化が 行われていたとする森本 六爾さんの 意見はお亡くなりになった時点では 相変わらず無視されたままだったそうです 無念だったでしょうね。 当時日本は戦前ということもあり、 歴史学については皇国史観があり、 かなり統制が厳しかった時代だったと 思われます。 そんな森本 六爾さんが亡くなった1936年 の12月に行われた遺跡の調査でなんと 森本 六爾さんが唱えた弥生時代に 稲作をしていたという事実が判明した そうです。 !! もう少しだけ生きながらえることが 出来ていれば、戦後の自由な研究が出来 森本 六爾さんのやりたかった研究が 日の目を見ることになったと思われますが ・・・ そんな森本六爾さんのお墓は、 現在森本六爾の地元奈良県桜井市にある 粟殿極楽寺共同墓地に奥さんのミツギ夫人 とともに埋葬されているそうです。 とはいえ、森本 六爾さんについて 考古学の鬼、反骨の考古学者として 考古学者の間でかなりの知名度がある方 だそうです。 というのも、森本六爾さんのお弟子さん たちがのちに数々と著名な実績を挙げられ そのことから森本六爾さんの異名が ことさら取り上げられたみたいですね。 スポンサードリンク 森本 六爾さんの妻 嫁 森本ミツギとは? さて、そんな森本六爾さんを支えたのが 森本六爾さんの妻 嫁 の森本ミツギさん です。 森本ミツギさんについての情報は 残念ながら、ほとんど見つけることが 出来なかったのですが・・・。 かろうじて判明していることは、 教師をされていた方だったそうで、 実は森本六爾さんが運営していた 考古学研究会 のちの東京考古学会 の 運営費は森本ミツギさんが教師として 稼いだお金からやりくりされていた そうです。 !! 確かに、高等師範学校を辞めた後の 収入がなかった中、森本六爾さんが 考古学の研究に集中出来たのは、 ミツギ夫人の支えがあったればこそだった とは!! しかも、その働きのおかげで森本六爾さんが フランスパリへ留学することまでやってしまう ってかなりスゴい方ですね。 今回のETV特集では、 森本六爾さんとその夫人ミツギさんの 再現ドラマがあるそうですが、 これは必見ですね。

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で、彼のドラマがあると言うので、いつもなら9時には寝ているのに、11時からの1時間の伝記ドラマを見た次第である。 1920年旧制畝傍中学卒業後小学校の代用教員だったが、その後東京に出て1924年から29年まで考古学者の東京師範教授・三宅米吉の副手(ほとんど無給だと思う)を務めた。 この間に、若い研究者と共に考古学研究会を立ち上げ研究雑誌も発行していた。 仲間には小林行雄、杉原荘介、藤森栄一、それに妻となったミツギ夫人などがいた。 このうち小林行雄は工学部出身ながら考古学に転じ、唐古遺跡などを研究して京大教授になっている。 杉原荘介は戦後、弥生の登呂遺跡を発掘し、さらに相沢忠洋から持ち込まれた旧石器を得て岩宿遺跡を発掘した。 藤森栄一は在野考古学者として八ヶ岳山麓の遺跡を発掘し、縄文農耕論を提唱した。 縄文農耕説が正しかったことは、縄文水田の発見や三内丸山遺跡の研究で実証されている。 で、森本六爾であるが、奈良県の唐古池(農業用の溜池)の近くの代々の庄屋の生まれ、池の堤から多数出土する土器片を集めるのが子供時代の遊びだった。 東京へ出たのは、上野の博物館で全国から集まった遺物を実測するためだった。 彼が研究会を立ち上げた理由は全国のアマチュア研究者からの情報を集めるためでもあった。 そのことによって、古代人の生活の様子、文化の発展や影響関係を見ようとしたのだろう。 主として取り組んだ全国の弥生土器の編年は死後になったが、杉原と小林によって完成した。 彼の最大の業績となったのは弥生水田稲作の提唱であるが、その根拠として弥生土器についていた籾の痕や、煮炊きして焦げた土器片だった。 しかし、それを学会で発表する機会を得たものの、水田もない、農耕用具も出土しないのに何を言うかと考古学界の指導者たちから排斥されてしまった。 彼の師事した三宅米吉がすでに亡くなっていたせいもあるのだろう。 で、その数年後に夫婦ともに結核で亡くなってしまった。 しかし1年後に逆転劇が起きた。 彼の出発点ともいえる唐古の道路工事現場から、続々と弥生遺跡が発掘されだしたからである。 水田跡、農耕用具に多数の壊れていない土器などで、六爾の仮説が証明された。 六爾は当時の大学の考古学を遺物研究と批判し、その遺物がどう使われたのか、生活文化はどうだったのか、それを復元すべきとしたのであるが、大学の研究者からは空想の産物と批判されていた。 どうやら当時の考古学は仮説を立てるのを恐れていたに違いない。 ドラマでは、天孫降臨神話の時代と被るので、それと異なる文化を提示できなかったとしているが、それでは考古学会を馬鹿にしすぎだと思う。 やはり、モノがなければ研究できない。 それ以上は空想であって、学問の対象にならないと頑固に思い込んでいたのだと思う。 従って、唐古で水田遺跡が発見されれば、その研究も進むことになった。 それと弥生土器の全貌を捉えるというアプローチも思いつかなかった。 そうなると素人の協力も得なければならないし。 その膨大な情報を整理し、地域的な変異、その基盤にある共通性などを摘出して日本の中世・近世文化を再現して見せたのである。 古代がないのは伝承でも届かないからとのことだが、記紀神話や万葉集を使って折口信夫がやっていたように思う。 むろんアマチュアを信用しすぎてもいけない。 旧石器捏造事件を起こしたのはアマチュア研究者で神の手と賞賛されていた藤村新一氏だった。 玄人の大学研究者まで騙されていたのは、実態は旧石器を良く知らなかったかららしい。 毎日新聞が暴露スクープをする以前から警鐘を鳴らしていたのはヨーロッパへ留学して旧石器を研究していた人物だった。 やはりたくさん見ていれば特徴がつかめるのだとか。 日本にはアカデミズムに玄人の旧石器研究者がいなかったということである。 その状況は、森本氏の時にアカデミズムに玄人の弥生研究者がいなかったし、それにもかかわらず権威を振るっていたことに対応している。 ところでたくさん観察して観察力を身に付けることは大事なことらしい。 いま、読売「時代の証言者」に大隅良展の連載があるが、ノーベル賞を獲得したオートファジー研究の出発点は顕微鏡で細胞が自食している現場を捉えたことだったとのこと。 ということは、時代と大きさのレベルは異なるがファーブルの昆虫の観察と同じようなことをしていたことになるし、森本六爾の弥生土器の観察と研究法は同じなのである。 2020年• 08月• 09月• 10月• 11月• 12月 2019年• 2018年• 2017年• 2016年• 2015年• 2014年• 2013年• 2012年• 2011年• 2010年• 01月• 02月• 03月• 04月• 05月• 06月• 07月• 08月• 09月• 10月•

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