この世 は 無常。 この世の真理を解き明かす4つのキーワード|お釈迦さまの教え|仏教の教え|日蓮宗ポータルサイト

獣ゆく細道

この世 は 無常

無常の意味 まずは、「無常」の意味からです。 この世の中の一切のものは常に生滅流転 (しょうめつるてん) して、永遠不変のものはないということ。 特に、人生のはかないこと。 また、そのさま。 出典: デジタル大辞泉(小学館) 「 無常」とは、 「 この世の全てのものは、移り変わっていくこと」という意味です。 「この世の全て」とは、 「形があるもの・ないもの全てのこと」だと思ってください。 例えば、私たちが使っているテレビやパソコンもそうですし、 人や犬、自然現象まですべて当てはまります。 テレビやパソコンは、いずれは故障してしまいますよね。 永遠に使える家電製品など存在しません。 また、人間や犬などの生物も一緒です。 人間なら100年、犬なら20年もすれば、 たいがいはこの世から亡くなってしまうでしょう。 つまり、 「 世の中にあるすべてのものは、常に変化し続け、 移り変わっていくもの」だと言えます。 このことを、 「 無常」と呼んでいるわけですね。 この場合は、「人生のはかなさ」を 強調するような時に使うと考えて下さい 無常の語源 「無常」という言葉は、仏教の用語からきています。 簡単な例が、 『 平家物語(へいけものがたり)』です。 『平家物語』の最初に、 「祇園精舎の鐘の声、 諸行無常の響きあり」という一文があります。 この「 諸行無常(しょぎょうむじょう)」 というのは、実は仏教用語です。 「 諸行」は「 この世の全て」、 「 無常」は「 移り変わっていく」という意味です。 すなわち、 「この世の全てのものは、常に変化していく」 ということを言っているわけですね。 仏教というのは、ブッダが始めました。 ブッダは、 「 人の苦しみは、いつまでも変わらないことから来る」 と主張したことで有名です。 例えば、 自分にとって大事な人が亡くなった場合、 誰もが悲しい気分になるでしょう。 人間として当然の感情ですよね。 しかし、もしも人の命が 永遠に続くとしたらどうでしょうか? なにか命の重みが軽くなってしまうような気がしますよね。 モノにしても一緒です。 いつか壊れてしまうからこそ、普段から大事に使うのです。 ブッダは、「諸行無常」を受け入れると、 不安や悲しみが軽減すると言いました。 その後、仏教は多くの人に影響を与え、 普段の生活でも「無常」が使われるようになったのです。 「無常」という言葉が普及したのは、 このような背景があったわけですね。 スポンサーリンク 無情の意味 続いて、「無情」の意味です。 思いやりのないこと。 また、そのさま。 精神や感情などの心の働きのないこと。 また、そのもの。 草木・瓦石・国土など。 出典: デジタル大辞泉(小学館) 「 無情」とは、 「 情けや思いやりがないこと」を言います。 「 無情」は文字通り、 「 情(なさ)けが 無(な)い」と書くので比較的分かりやすいでしょう。 この場合は、植物や土など 心がないものに対して使うのが特徴です。 思いやりがない」 という意味で使われることが多いですね。 ちなみに、 「無情」と間違えやすい言葉として 「 薄情(はくじょう)」があります。 両者の違いは、 「薄情」は、人を思いやる気持ちが薄いのに対し、 「無情」は、人を思いやる気持ちが 全くないという点です。 つまり、 無情のほうが、より冷酷ということですね。 例えば、風邪を引いて寝込んでいる人に対して、 看病を一切せず、かわいそうとすら思わないような人を 「無情」と言うのです。 無上の意味 最後は、「無上」の意味です。 最もすぐれていること。 また、そのさま。 出典: デジタル大辞泉(小学館) 「 無上」とは、 「 この上ないこと・最もすぐれていること」などを意味する言葉です。 「無上」は、 喜びや幸せなどが最高潮に達したときに使うと考えて下さい。 「無上」も同様に、仏語を由来とします。 元々は「無上菩提(むじょうぼだい)」からきた四字熟語で、 「無上」は「仏の悟り」を意味する言葉でした。 スポンサーリンク 無常・無情・無上の違い ここまでの内容を整理すると、 「 無常」= この世の全てのものは、移り変わっていくこと。 「 無情」= 情けや思いやりがないこと。 「 無上」= この上ないこと・最もすぐれていること。 ということでした。 冷静に比較すると、 それぞれ全く違う意味なのが分かるかと思います。 まず、「 無常」は「 常に 無い」と書くので、 「全てのものは 常にあるわけでは 無い( 変化していく)」と記憶するとよいです。 そして、「 無情」は、 「人情」や「感情」などのように、 そもそも 人の感情にスポットを当てた言葉です。 したがって、 「感 情が 無い」ので、「 無情」=「 思いやりがない」 と覚えるのが分かりやすいです。 最後の「 無上」は「この 上無い」と書くので、 「最もすぐれている」と覚えておきましょう。 ちなみに、 それぞれの「類語」は以下の通りです。 【無常の使い方】• 日本人が桜を好きなのは、咲いてもすぐ散る様子が 無常観を示しているからだ。 四季の変化を目の当たりにすると、自然というのは 無常であることを感じる。 彼は世の中の 無常を悟り、出家することになった。 この古典作品は、私たちに 無常観というものを教えてくれる。 ビジネスに絶対はなく、 無常のように変化していく世界と考えた方がいい。 【無情の使い方】• 勉強しない子供に腹を立て、母親はゲーム機を破壊するという 無情な行動にでた。 試合は一方的な負けゲームとなり、さらにグラウンドには 無情の雨が降り注いだ。 遭難者たちは山の中で助けを待っていた。 しかし、 無情にもヘリは上空を飛び去って行った。 彼のプロ野球選手になるという思いは、 無情の夢と散りそうだ。 音楽の世界は楽しい反面、非常に厳しいです。 ある意味、 無情の世界と言ってもいいです。 【無上の使い方】• 大学合格という結果を受け、今は 無上の気分です。 退院して自由に動ける生活に、 無上の幸せを感じています。 社長と一対一で話せるなんて、 無上の光栄です。 補足すると、 「無情」は「(人の)感情がない」という意味ですが、 場合によってはモノに対して使う場合もあります。 例文だと、 「無情の雨」や「無情にもヘリは~」などの文ですね。 このあたりは、臨機応変に 文脈から判断するようにしてください。 関連: 関連: まとめ 以上、内容をまとめると、 「 無常」= この世の全てのものは、移り変わっていくこと。 「 無情」= 情けや思いやりがないこと。 「 無上」= この上ないこと・最もすぐれていること。 ということでした。 どれも似ていて紛らわしい言葉です。 特に、「無常」と「無情」は間違えやすいので、 違いをしっかりと整理しておきましょう。

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仏教の教え-無常とは

この世 は 無常

無常とは無常とは虚無ではなく、物事が成長するプラスの面を見ること四苦八苦は人間が生きていくうえで付いてまわるとブッダはいいました。 そしてさらに「無常に基づく苦」があると。 無常というと日本人は『平家物語』の冒頭にある「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり」を思い出します。 「人生の短いことをはかなむ」といった意味でとられがちですが、仏教の経典に出てくる「無常」は少し意味が違うようです。 無常というのはブッダの教えそのものですけれど、日本では今、非常にセンチメンタルでマイナス的なものとして、とらえられていました。 これは無常を感情や情緒として感受するためです。 感情的にとらえると、どうしても虚無的になりやすいのですが、それはいうなれば「無常感」といったものです。 ブッダの説く無常はそうではなくて「無常観」。 すべて存在するものは絶えず移り変わっていると観察する人生観であり世界観です。 経典では、人間が「生あるものは必ず死ぬ」という赤裸々な事実や現実をそのまま受け入れたとき、そこにある種の深い感動が生まれ、そこから感嘆がわき出てきます。 それが「無常」だといっています。 つまり、「無常に基づく苦」というのは「生あるものは必ず死ぬ」という事実そのものを指しているといっていいでしょうか。 その事実を受け入れて、なおかつ前向きに生きていこうということでしょう。 ブッダが成道して悟った時、衆生の多くは人間世界のこの世が、無常であるのに常と見て、苦に満ちているのに楽と考え、人間本位の自我は無我であるのに我があると考え、不浄なものを浄らかだと見なしていた。 これを四顛倒(してんどう=さかさまな見方)という。 この「無常」を説明するのに、「刹那無常」(念念無常)と「相続無常」の二つの説明の仕方がある。 刹那無常とは、現象は一刹那一瞬に生滅すると言う姿を指し、相続無常とは、人が死んだり、草木が枯れたり、水が蒸発したりするような生滅の過程の姿を見る場合を指して言うと、説明されている。 この無常については、「諸行無常」として三法印・四法印の筆頭に上げられて、仏教の根本的な考え方であるとされている。 なお大乗仏教では、世間の衆生が「常」であると見るのを、まず否定し「無常」であるとしてから、仏や涅槃こそ真実の「常住」であると説いた。 これを常楽我浄と言うが、これについては大乗の大般涅槃経に詳しい。 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 日本人と「無常」 「祇園精舎の鐘の声」で始まる軍記物語『平家物語』、吉田兼好の随筆『徒然草』、「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず」で始まる鴨長明の『方丈記』など、仏教的無常観を抜きに日本の中世文学を語ることはできません。 単に「花」と言えばサクラのことであり、今なお日本人が桜を愛してやまないのは、そこに常なき様、すなわち無常を感じるからとされています。 「永遠なるもの」を追求し、そこに美を感じ取る西洋人の姿勢に対し、日本人の多くは移ろいゆくものにこそ美を感じる傾向を根強く持っているとされています。 「無常」「無常観」は、中世以来長い間培ってきた日本人の美意識の特徴の一つと言って良いでしょう。 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 というものです。 これを解釈しますと、まず大切なのは真実の生き方とは苦を背負いつつ生きていく道であるという確信を得ることである。 次に、そういう真実の人生を生きようとする人間の努力を妨げているもとになるのは煩悩です。 この煩悩をコントロールして、もっと澄んだ心持ちになっていけば、「苦」の世界を活き活きと人間らしく生きて行けるはずです。 そのための道を指し示しかものが仏道だ、と。 その四つを、「苦節」「集諦」「滅諦」「道節」といいました。 「諦」はあきらめでなく、「真理」です。 この四つが人生の根本にある真理だと釈尊は教えたのです。 それを知ることは決して虚無に陥ることではなく、むしろ、よりよく生きる道が開けるということなのです。 釈尊は確かに「この世は苦である」といいましたが、亡くなる前には「この世は美しい。 人間の命は甘美なものだ。 」といっていました。 これは「苦であるがゆえに、そこに美しいものが生まれてくる」という釈尊のひとつの悟りであったよう思われます。 ブッダは何をいいたかったのでしょうか。 現実には素晴らしいものはたくさんあるし、美しいものもたくさんあります。 しかし、それらはあっという間に過ぎ去り、消えて失われていくものです。 自分も同じく、やがて死んでいくものです。 ブッダが町や木を見て「楽しい」「美しい」といったのは、苦の世界において生を肯定している言葉だと思います。 「この世は美しい。 人間の命は甘美なものだ。 」というのもそういうことです。 しかし、この世という全体は「苦」なのです。 そうした苦の世界をどのように生きるかなのです。 そこから人間の煩悩を断ち切って苦しい人生をよりよく生きるという実践論が出てくるわけです。 四つの真理 苦諦 苦諦(くたい、duHkha-aaryasatya)とは人生の厳かな真相、現実を示す。 「人生が苦である」ということは、仏陀の人生観の根本であると同時に、これこそ人間の生存自身のもつ必然的姿である。 このような人間苦を示すために、仏教では四苦八苦を説く。 四苦とは、生・老・病・死の4つである。 非常に大きな苦しみ、苦闘するさまを表す慣用句「四苦八苦」はここから来ている。 集諦 集諦(じったい、duHkha-samudaya-aaryasatya)とは、苦が、さまざまな悪因を集起させたことによって現れたものである。 という真理、またはこの真理を悟ることを言う。 集諦とは「苦の源」、現実に苦があらわれる過去の煩悩をいうので、苦集諦といわれる。 「集」とは招き集める意味で、苦を招きあつめるものが煩悩であるというのである。 この集諦の原語は「サムダヤ」 samudaya であり、この語は一般的には「生起する」「昇る」という意味であり、次いで「集める」「つみかさねる」などを意味し、さらに「結合する」ことなどを意味する。 その点、集の意味は「起源」「原因」「招集」いずれとも解釈できる。 苦集諦とは "duHkha-samudaya-satya" とあるので、「苦の原因である煩悩」「苦を招き集める煩悩」を内容としている。 そこで、具体的には貪欲や瞋恚(しんに)、愚痴などの心のけがれをいい、その根本である渇愛(かつあい)をいう。 これらは欲望を求めてやまない衝動的感情をいう。 さて、仏教において苦の原因の構造を示して表しているのは、十二縁起である。 この十二縁起とは苦の12の原因とその縁を示している。 十二縁起より、苦とは12の原因のシステムという事になる。 12個集まってそれ全体が苦なのである。 だから、「無明」も「渇愛」も、苦の根本原因であり苦集諦である。 滅諦 滅諦(めったい、nirodha-aaryasatya)とは、「苦滅諦」といわれ、煩悩が滅して苦のなくなった涅槃の境地を言い、いっさいの煩悩の繋縛(けばく)から解放された境地なので解脱の世界であり、煩悩の火の吹き消された世界をいう。 または、苦の滅があるということを認識すること、すなわち苦の滅の悟り、または苦の滅を悟ることを滅諦という。 具体的には、諸法皆空という言葉で言われているように、森羅万象全ての法、すなわち諸法はすべてこれ空であって、実体のあるものではなく、因と縁から成り立っているものであり、苦は縁であり、縁は因(たとえば心や行いなど)を変えることによって変わりうるという悟りであるとも言える。 道諦 道諦(どうたい、maarga-aaryasatya)とは、「苦滅道諦」で、苦を滅した涅槃を実現する方法、実践修行を言い、これが仏道すなわち仏陀の体得した解脱への道である。 その七科三十七道品といわれる修行の中の一つの課程が八正道である。 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』.

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この世 は 無常

諸行無常とは 「 諸行無常」というのは、諸行は無常なり、ということで、『 涅槃経』のお言葉です。 「 諸行」はこの世のものすべてのことで、「 無常」とは、常がない、続かないということです。 この世の一切は続かない、すべて移り変わって行く、ということです。 この諸行無常が非常に有名なのは、『 平家物語』の最初に記されていて、誰しも学校で習ったり、暗記させられたりするからでしょう。 『 平家物語』にはこうあります。 祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり(平家物語) 「 祇園精舎」というのは、の時代の代表的なお寺です。 たくさんのお弟子が集まってお釈迦さまの教えにしたがって修行していました。 そこでお弟子が亡くなると、祇園精舎の中の「 無常堂」というところの鐘が鳴らされます。 それが、祇園精舎の鐘の声です。 祇園精舎の鐘がなると、 「 今日も誰かが亡くなったのか」 とみんな分かりますので、一切は続かないという諸行無常を改めて痛切に知らされるというのが、 「 祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」 ということです。 この諸行無常は、仏教の旗印である上に、私たちにとってもとても重要なので、お釈迦さまは、の至るところに無常を説かれています。 親鸞聖人の教えられた諸行無常 たまに、聖人は、無常についてはあまり教えられなかった、という人がありますが、そんなことはありません。 親鸞聖人の教えられたことは仏教以外にありませんから、親鸞聖人も無常を繰り返し教えられています。 例えば、主著の『 』にこう教えられています。 一切有為はみなこれ無常なり。 (教行信証) 「 一切有為」とはこの世のすべてです。 「 一切有為はみなこれ無常なり」とは、この世の一切は無常である、続かない、ということですから、「 諸行無常」ということです。 親鸞聖人も、当然、諸行無常を教えられているのです。 歎異抄に説かれた無常 また有名なところでは、親鸞聖人のお言葉がそのまま書き残されている『 』に、こうあります。 火宅無常の世界は、万のこと皆もって空事・たわごと・真実あること無し(歎異抄) 「 火宅」とは、火のついた家ということす。 隣の家から火が出て、自分の家のひさしに、火が移って燃え始めます。 そんな家にいて、安心できるでしょうか。 不安で仕方がありません。 「 今12時だから、昼食を済ませてから逃げよう」とか、 「 こんな格好で逃げたらどう思われるか、外出用の服装に着替えてから逃げよう」 という余裕はありません。 そのまま飛び出していきます。 そういう不安な状態を火宅といわれています。 なぜ不安なのかというと、次に「 無常の世界」といわれていますように、無常だからです。 この世は無常の世界です。 みんな、お金や財産、地位、名誉など、人それぞれ色々なものを心の支えにして、幸せになろうとしています。 何を生きがいにするかは人それぞれですが、何かしら、頼りにして、希望をもって、生きる力にしています。 ところが、そんな支えにしたり、頼りにしたりしているもので、崩れないものは一つもありません。 「 万のこと皆もって」というのは、すべてのものは、例外なく、ということです。 諸行無常ですから、この世のすべては最後、必ず崩れて行きます。 「 空事・たわごと・真実あること無し」 というのは、真実たよりになるものは一つない、ということです。 崩れたら新しいものを頼りにするのですが、また崩れて行きます。 頼りにしては裏切られ、頼りにしては裏切られ、そんなことを繰り返して、最後はみんな死んで行くのです。 親鸞聖人の出家の動機 そもそも親鸞聖人が、出家されたのは、無常を見つめられたからでした。 親鸞聖人は4歳でお父さんを、8歳でお母さんを亡くされました。 天涯孤独の身となられた親鸞聖人は、 「 次に死んで行くのは自分の番だ 死んだらどうなるのだろう」 と自分の後生がまったく分からないことに驚かれたのです。 その真っ暗な後生を何とか明るくなりたいと、9歳で親鸞聖人は仏門に入られます。 遠縁にあたる慈鎮和尚に出家したい旨を申し出ると、 「 それは尊いことだ、ではさっそく明日、得度の式をあげよう」 といわれます。 「 得度(とくど)」というのは、出家する時の儀式のことです。 その時、親鸞聖人は、このような歌を詠まれています。 明日ありと 思う心の 仇桜 夜半に嵐の 吹かぬものかは(親鸞聖人) 明日とおっしゃいますが、本当に明日はあるのでしょうか? 今は満開の桜の花も、夜半に吹く一陣の嵐で散ってしまいます。 無常は迅速、人の命は桜の花よりもはかないものと聞いております。 どうか明日といわず今日、出家得度の式を挙げて頂けないでしょうか、という意味です。 私たちも、明日も生きていられると思っていますが、それは、永遠に死なないという心です。 なぜなら、明日になれば、また明日も生きていられると思うからです。 後ろから光をあてて、前にできた影を踏もうとしても、どんどん影が逃げて行くように、「 明日も生きていられると思う心」は、永遠に死なないと思う心です。 ですから、明日も生きていられるというのは間違いなのです。 仏教を明日聞こうと思っていても聞けません。 仏教は今聞かなければならないのです。 これを聞かれた慈鎮和尚は、まったくその通りだと思い直し、その日に得度の式をあげてくれたといわれます。 白骨の章に説かれる無常観 親鸞聖人の教えを正確に、最も多くの人に伝えられた上人も、至るところに無常を教えられています。 例えばやでよく読まれる、有名な『 』5帖目16通「 」には、「 無常の風」と、無常を目に見えない風にたとえられて、せつせつと説かれています。 そして、その無常の激しさをこのように教えられています。 朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり(白骨の章) 「 紅顔」というのは、赤い顔です。 朝、赤いほっぺをして出ていった人が、夕方には白骨となって帰ってくる。 変わり果てた姿になってしまう。 全く考えていなかった、まさかの事態が起きて、一瞬にして人間の命はなくなってしまいます。 私たちは、事故で死ぬというと、ニュースの中のことで、自分が死ぬとは思いません。 ところが、そういう 自分が死ぬと思っていない人が、毎日交通事故などで死んで行くのです。 何の前触れもなく、突然死んで行くという厳粛な事実を教えられています。 無常の風が吹くと? また蓮如上人は、無常の風が吹くとどうなるか、『 御文章』1帖目11通にこう教えられています。 もしただ今も無常の風きたりて誘いなば、いかなる病苦にあいてかむなしくなりなんや。 まことに死せんときは、かねてたのみおきつる妻子も財宝も、わが身には一も相添うことあるべからず。 されば死出の山路のすえ・三塗の大河をば、唯一人こそ行きなんずれ。 (御文章) 風は目には見えませんが、猛烈な勢いですべてをなぎ倒していきます。 何の前触れもなく襲ってくる死を、風にたとえて無常の風といわれます。 どんなに元気な人でも、ガンだと分かった時には末期だったとか、脳梗塞で倒れて、突然死んでしまうことがあります。 無常の風に誘われたら、どんな病で死んでしまうか分かりません。 「 まことに死せんときは」とは、いよいよ自分が死んで行くとなったら、ということです。 「 かねてたのみおきつる」というのは、今までたよりにして、心の支えにしてきたすべてのものです。 その例として、妻子やお金や財産をあげられています。 「 わが身には一も相添うことあるべからず」といわれているように、病気の時は看病してくれる家族も、死んで行く時にはついては来てくれません。 どんなにお金があっても死んで行く時には一円も持っていけません。 どんなに地位や名誉が高くても、心の明かりにはなりません。 「 されば死出の山路のすえ・三塗の大河をば、唯一人こそ行きなんずれ」 というのは、すべてをおいて、たった一人で死んで行かなければならない、ということです。 このように、 死ねば、今までかき集めてきたものをすべておいて、たった一人で苦しみの世界へ旅立って行かなければならないのです。 逃れがたきは無常なり そして、この無常から逃れられる人はありません。 蓮如上人は、『 御文章』3帖目4通にこう教えられています。 上は大聖世尊より始めて、下は悪逆の提婆に至るまで、逃れ難きは無常なり。 「 大聖世尊」とは、この世で最も尊い聖者であるお釈迦さまのことです。 「 悪逆の提婆」とは、そのお釈迦さまを殺そうとして、大変恐ろしい罪を造ったダイバダッタ(提婆達多)のことです。 この世で最も尊いお釈迦さまから、最も重い罪を造った提婆達多まで、死を免れることはできない、ということです。 私たちも、死なない人はありません。 どんな人も、この世に生まれたからには死んで行きます。 仏教を聞くかどうかに関係がありません。 死なない身になれるわけがないのです。 生まれたからには必ず死んでいく、これは間違いない事実であり、真理です。 私たちは100%確実に死んで行くのです。 無常から逃れる道はありません。 仏法に明日はない しかも、無常はいつやってくるか分かりません。 蓮如上人の言行録である『 御一代記聞書』にはこう言われています。 蓮如上人仰せられ候、「仏法の上には、毎事に付いて空恐ろしき事と存じ候べく候。 ただ万について油断あるまじき事と存じ候え」の由、折々に仰せられしと云々。 「仏法には明日と申すことある間じく候。 仏法の事は急げ急げ」と仰せられたり。 (御一代記聞書) 「 仏法の上には、毎事について空恐ろしき事と、心得ておきなさい」と、いわれています。 「 毎事に」というのは、すべてのことです。 お経のお言葉なら「 諸行」で、『 歎異抄』なら「 万のこと皆もって」です。 「 空恐ろしき」というのは、いつどうなるか分からない恐ろしいことだ、ということで、無常なんだよ、ということです。 どんなに心の支えにしているものでも、いつ崩れるか分かりません。 「 ただ万について油断あるまじき事と存じ候え」というのは、 「 それはそうかもしれないけど、自分は大丈夫」 と私たちは油断していますので、油断している人が危ないんですよ、 それは他人のことではなくて自分のことなんだから、油断してはいけませんよ、ということです。 「 仏法には明日と申すことある間じく候」というのは、親鸞聖人が詠まれた歌では、 「 明日ありと 思う心の 仇桜 夜半に嵐の 吹かぬものかは」 と同じ意味です。 私たちも、明日は生きていられると思っていますが、いつ死ぬか分かりませんよ。 明日死ねば明日から後生、今晩死んだら今晩から後生ですよ、ということです。 だから、「 仏法の事は急げ急げ」と教えられています。 その後生の解決を教えられたのが仏教だから、早く仏教を聞きなさい、ということです。 どんな人も早く これを蓮如上人は、「 白骨の章」の最後に、こう教えられています。 されば、人間のはかなき事は老少不定のさかいなれば、誰の人も、はやく後生の一大事を心にかけて、 (白骨の章) 「 老少不定(ろうしょうふじょう)」というのは、年老いた人が先で若い人が後から死んで行くとは決まっていない、ということです。 肉体の年齢は人それぞれ違いますが、無常からいえば同じ年だということです。 年取った人が先に死んでいくなら若い人は安心できますが、そんなことは決まっていません。 いつどんなことで死ぬか分からない、人間の世界というのはそういうものですよ、ということです。 だから、「 誰の人も」といわれています。 いつ死ぬか分からないということは、この人はあてはまらないという人は一人もいませんから、すべての人、例外なく、ということです。 「 はやく」というのは、いつ死ぬか分かりませんから、急ぎなさい、ということです。 「 後生の一大事を心にかけて」とは、生きている人間が死んで行く以上の一大事はありませんから、これを「 」といわれています。 この後生の一大事を常に忘れず、早く解決しなさい、ということです。 無常を見つめて後悔のないように この後生の一大事は、吸う息吐く息とふれあっていると親鸞聖人は教えられています。 呼吸のあいだすなわちこれ来生なり。 一たび人身を失いぬれば万劫にもかえらず。 この時悟らざれば、仏、衆生をいかがしたまわん。 願わくは深く無常を念じて、いたずらにをのこすことなかれ。 (教行信証) 「 来生」とは後生のことです。 「 呼吸のあいだすなわち後生」というのは、吸った息が吐けなければ後生、吐いた息が吸えなければ後生。 人生は長いように思っていますが、一息一息が死と触れ合っている。 いつ、後生の一大事が引き起こるのか分からない、ということです。 「 一たび人身を失いぬれば万劫にもかえらず」とは、次の瞬間に死んだら、永遠に戻らない人生となる、絶対に取り返しがつかない、ということです。 後生の一大事を解決せずに死んでしまえば仏様でもどうにもならないので、 「 この時悟らざれば、仏、衆生をいかがしたまわん」 仏さまでも助けられないといわれています。 「 願わくは深く無常を念じて、いたずらに後悔をのこすことなかれ」というのは、どうか皆さん、 刻々と迫る無常を凝視して、決してをのこさぬように、といわれています。 臨終に 「 こんな後悔するならなぜ聞かなかったのか。 あの時もっと聞けばよかった」 と後悔しなさるなよ、この後生の一大事を解決して、本当の幸せになるために人は生まれてきたんだから、これが本当のなんだ。 生きている間にしか果たせないぞ、生きている間が勝負だぞ、ということです。 このように、親鸞聖人は、迅速な無常を教えられ、無常を見つめて早く後生の一大事を解決して、死ねばの極楽浄土へ往って仏に生まれる永遠に変わらない幸せの身になりなさいよ、と教えられているのです。 では、どうすれば後生の一大事を解決して、永遠に変わらない幸せになることができるのか、については、以下の小冊子に分かりやすくまとめておきました。 今すぐお読みください。

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