止利仏師 鞍作鳥。 飛鳥寺

飛鳥寺

止利仏師 鞍作鳥

寺号 [ ] 飛鳥寺には複数の呼称がある。 法号は「 法興寺」または「 元興寺」(がんごうじ)であり、平城遷都とともに今のに移った寺は「」と称する。 一方、蘇我馬子が建立した法興寺中金堂跡に今も残る小寺院の公称は「 安居院」(あんごいん)である。 『』では「法興寺」「元興寺」「飛鳥寺」などの表記が用いられている。 古代の寺院には「飛鳥寺」「」「」「」のような和風の寺号と、「法興寺」「」「」のような漢風寺号(法号)とがあるが、は、法号の使用は8年()の「諸寺の名を定む」の命以降であるとしている。 「法興」とは「仏法興隆」の意であり、の文帝()が「三宝興隆の詔」を出したを「法興元年」と称したこととの関連も指摘されている。 本項では馬子が建立した寺院と、その法灯を継いで飛鳥に現存する寺院「安居院」とを含め「飛鳥寺」と呼称する。 なお、国のの指定名称は「飛鳥寺跡」である。 歴史 [ ] 創建 [ ] 飛鳥寺(法興寺)はのとして末から初頭にかけて造営されたもので、本格的な伽藍を備えた日本最初のである。 発願から創建に至る経緯は『』、『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』(本『諸寺縁起集』所収、以下『元興寺縁起』という)、ならびに同縁起に引用されている「露盤銘」 と「丈六光銘」 に記載がある。 は、『元興寺縁起』の本文には潤色があり史料価値が劣るとする一方で、「露盤銘」は縁起本文よりも古い史料であり信頼が置けるとしている。 『日本書紀』によると、法興寺(飛鳥寺)は2年()にが建立を発願したものである。 馬子は排仏派のと対立していた。 馬子は守屋との戦いに際して勝利を祈念し、「諸天と大神王の奉為(おほみため)に寺塔(てら)を起立(た)てて、三宝を流通(つた)へむ」と誓願し、飛鳥の地に寺を建てることにしたという。 岸俊男によると、古代の「飛鳥」の地とは、の右岸(東岸)の、現在の飛鳥寺境内を中心とする狭い区域を指していた。 一方、19年()成立の『元興寺縁起』には発願の年は「丁未年」()とし、発願の年自体は『書紀』と同じながら内容の異なる記載がある。 『元興寺縁起』によると丁未年、三尼(、、)はに渡航して受戒せんと欲していたが、「百済の客」が言うには、この国(当時の)には尼寺のみがあって法師寺(僧寺)と僧がなかったので、法師寺を作り百済僧を招いて受戒させるべきであるという。 そこで用明天皇が後のとに命じて寺を建てるべき土地を検討させたという。 当時の日本には、前述の三尼がおり、馬子が建てた「宅の東の仏殿」「石川の宅の仏殿」「大野丘の北の塔」などの仏教信仰施設はあったが、法師寺(僧寺)と僧はなかったとみられる。 『書紀』によれば翌元年()、百済から日本へ僧と技術者(寺工2名、鑢盤博士1名、瓦博士4名、画工1名)が派遣された。 このうち、鑢盤博士とは、仏塔の屋根上の相輪などの金属製部分を担当する工人とみられる。 同じ崇峻天皇元年、飛鳥の(まかみのはら)の地にあった飛鳥衣縫造祖樹葉(あすかきぬぬいのみやつこ の おや このは)の邸宅を壊して法興寺の造営が始められた。 『書紀』の崇峻天皇3年()10月条には「山に入りて(法興)寺の材を取る」とあり、同5年()10月条には「大法興寺の仏堂と歩廊とを起(た)つ」とある。 この「起つ」の語義については、かつては「(金堂と回廊が)完成した」の意に解釈されていたが、後述のような発掘調査や研究の進展に伴い、「起つ」は起工の意で、この年に整地工事や木材の調達が終わって本格的な造営が始まったと解釈されている。 『書紀』の推古天皇元年()の条には「法興寺の刹柱(塔の心柱)の礎の中にを置く」との記事があり、翌日の()に「刹柱を建つ」とある。 なお(32年)の発掘調査の結果、塔跡の地下に埋まっていた心礎(塔の心柱の礎石)に舎利容器が埋納されていたことが確認されている。 ただし、舎利容器は後世に塔が焼失した際に取り出され、新しい容器を用いて再埋納されていたため、当初の状況は明らかでない。 『書紀』の4年()11月条に「法興寺を造り竟(おわ)りぬ」との記事がある。 『書紀』は続けて、馬子の子の善徳が寺司となり、(僧)と(百済僧)の2名の僧が住み始めたとある。 『元興寺』縁起に引く「露盤銘」にも「丙辰年十一月既(な)る」との文言があり、この丙辰年は596年にあたる。 しかし、後述のように、飛鳥寺本尊の像(作)の造立が発願されたのはそれから9年後の推古天皇13年()、像の完成はさらに後のことで、その間、寺はあるが本尊は存在しなかったということになる。 この点については研究者によってさまざまな解釈がある。 毛利久は、現存の釈迦如来像(飛鳥大仏)は、推古天皇4年に渡来系の工人によって造立されたもので、推古天皇13年から造られ始めたのは東金堂と中金堂の本尊であったとする、二期造営説を唱えた。 これとは別に、、松木裕美らが唱えた本尊交代説もある。 すなわち、蘇我馬子が所持していた石像が当初の中金堂本尊であったが、後に鞍作止利作の釈迦三尊像が本尊になったとする。 この弥勒石像は13年()(かふかのおみ)が百済から将来し、馬子が「宅の東の仏殿」に安置礼拝していたものである。 久野説では、飛鳥寺中金堂跡に現存する本尊台座が石造であり、この台座が創建時から動いていないことから、その上に安置されていた仏像も石造であったと推定する。 これに対し、町田甲一、大橋一章らは一期造営説を取り、中金堂本尊は交代していないとの立場を取る。 この説では、推古天皇4年の「法興寺を造り竟りぬ」は、『書紀』編者が塔の完成を寺全体の完成と誤認したものとみなし、寺の中心的存在で仏舎利を祀る塔がまず完成し、他の堂宇は長い年月をかけて徐々に完成したとみる。 今日では、この説が有力となっている。 飛鳥寺の伽藍については、発掘調査実施以前は式伽藍であると考えられていたが、(昭和31年)から(昭和32年)の発掘調査の結果、当初の飛鳥寺は中心のを囲んで中金堂、東金堂、西金堂が建つ一塔三金堂式の伽藍であることが確認された。 本尊の造立 [ ] 『書紀』によれば、推古天皇13年()、天皇は皇太子(聖徳太子)、大臣(馬子)、諸王、諸臣に詔して、銅(あかがね)と繍(ぬいもの)の「丈六仏像各一躯」の造立を誓願し、鞍作鳥(止利)を造仏工とした。 そして、これを聞いた高麗国の大興王から黄金三百両が貢上されたという。 『書紀』によれば、銅と繍の「丈六仏像」は翌推古天皇14年()完成。 丈六銅像を元興寺金堂に安置しようとしたところ、像高が金堂の戸よりも高くて入らないので、戸を壊そうと相談していたところ、鞍作鳥の工夫によって、戸を壊さずに安置することができたという挿話が記述されている。 一方、『元興寺縁起』に引く「丈六光銘」(「一丈六尺の仏像の光背銘」の意)には乙丑年(推古天皇13年、)に銅と繍の釈迦像と挟侍を「敬造」したとあり、造像開始の年は一致しているが、挟侍(脇侍)の存在を明記していること、大興王からの黄金が三百二十両であることなど、細部には相違がある。 「丈六光銘」によれば、戊辰年()にの使者らが来日して黄金を奉り、「明年」の己巳年()に仏像を造り終えたという。 つまり、『書紀』と「丈六光銘」とでは、銅造の本尊(飛鳥大仏)の完成年次について3年の差がある。 福山敏男は、仏像の完成年は裴世清らの来日の「明年」であるところ、『書紀』の編者が発願の「明年」と誤認したため、このような違いが生じたものと考証した。 当時の技術水準で、丈六の銅仏が1年足らずで完成するとは考えにくい点などから、福山の言うように、本尊(飛鳥大仏)の完成は609年とするのが通説となっている。 による蘇我氏宗家滅亡以後も飛鳥寺は尊崇され、の時代には官が作った寺院()と同等に扱うようにとする勅が出され 、の時代には・・と並ぶ「四大寺」の一とされて官寺並みにの保護を受けるようになった。 これに関連して飛鳥寺近くのからは大量のが発見され、その位置づけを巡って(飛鳥寺との関係も含めて)様々な議論が行われている。 飛鳥寺がこうした庇護を受けた背景には、同寺が当時の日本における仏教教学の研究機関としての機能を有した唯一の寺院であり、朝廷創建の大官大寺や薬師寺をもってこれに代わることができなかったとする説がある。 また、飛鳥寺がこうした機能を持ちえた背景には、においてに師事して帰国したが後に唐から持ち帰った経典の数々や弟子の学僧と共に飛鳥寺に居住したことがあったとされる。 平城遷都以後 [ ] () 都がへ移るとともに飛鳥寺も現在のに移転しとなった。 『続日本紀』には2年()に元興寺を左京六条四坊に移すとあり、2年()条にも法興寺を新京へ移すとあって記述が重複している。 このうち前者の「左京六条四坊」はの場所にあたることから、霊亀2年の記事は大安寺(大官大寺)の移転のことが誤記されたもので、飛鳥寺(元興寺)の移転は養老2年のことと考えられている。 馬子が飛鳥に建てた元の寺も存続し、本元興寺と称されたが、3年()に火災にあい、7年()には雷火で塔と金堂を焼失した。 以後寺勢は衰えて以降は廃寺同然となってしまった。 僧・訓海の『太子伝玉林抄』によれば、4年()の時点で飛鳥寺の本尊は露坐であったことが分かっている。 しかし、の9年()には仮堂が建てられて寺名を安居院とし、ようやく復興がなされた。 江戸時代中期の学者・の『菅笠日記』には、彼が9年()に飛鳥を訪ねた時の様子が書かれているが、当時の飛鳥寺は「門などもなく」「かりそめなる堂」に本尊釈迦如来像が安置されるのみだったという。 現在、参道入口に立つ「飛鳥大仏」の石碑は4年()のもので当時すでに「飛鳥大仏」と呼ばれていたことが分かる。 現・本堂は江戸末期の9年()にの篤志家の援助で再建されたもので、創建当時の壮大な伽藍の面影はない。 しかし発掘調査の結果、現在の飛鳥寺本堂の建つ場所はまさしく馬子の建てた飛鳥寺中金堂の跡地であり、本尊の釈迦如来像(飛鳥大仏)は補修が甚だしいとはいえ飛鳥時代と同じ場所に安置されていることが分かった。 なお、当寺の西にはの首塚がある。 寺域 [ ] かつての伽藍 [ ] 飛鳥寺(法興寺)復元図 飛鳥寺の伽藍は、往時は塔(五重塔)を中心とし、その北に中金堂、塔の東西に東金堂・西金堂が建つ、一塔三金堂式伽藍配置という方式の伽藍の配置がされていた。 これらの1塔、3金堂を回廊が囲み、回廊の南正面に中門があった。 講堂は回廊外の北側にあった。 四天王寺式伽藍配置では講堂の左右に回廊が取り付くのに対し、飛鳥寺では仏の空間である回廊内の聖域と、僧の研鑚や生活の場である講堂その他の建物を明確に区切っていたことが窺われる。 中門のすぐ南には南門があった。 回廊外の西側には西門があったことも発掘調査で判明している。 塔跡は、壇上積基壇(切石を組み立てた、格の高い基壇)、階段、周囲の石敷、地下式の心礎などが残っていたが、心礎以外の礎石は残っていなかった。 心礎は地下2. 7メートルに据えられ、中央の四角い孔の東壁に舎利納入孔が設けられていた。 舎利容器は7年()の火災後に取り出されて再埋納されており、当初の舎利容器は残っていないが、発掘調査時に玉類、金環、金銀延板、挂甲、刀子などが出土した。 出土品からは、この寺が古墳時代と飛鳥時代の境界に位置することが窺える。 中金堂跡は、壇上積基壇跡が残るが、基壇上の礎石は残っていなかった。 『護国寺本諸寺縁起集』によれば、中金堂は「三間四面 二階 在裳階」の建物で、身舎(内陣)の柱間が正面3間、側面2間、その周囲に庇(外陣)が廻り(建物の外側から見ると正面5間、側面4間)、重層の建物であったとみられる。 裳階(もこし、本来の屋根の下に設けた屋根)は当初からあったものかどうか不明である。 東西金堂跡の基壇は下成(かせい)基壇上に玉石を並べた上成(じょうせい)基壇を築いた二重基壇で、塔・中金堂の壇上積基壇よりは格の下がるものである。 二重基壇のうち上成基壇の礎石は失われ、下成基壇には小礎石が並んでいた。 この小礎石がどのように用いられたかは不明であるが、深い軒の出を支えるための小柱が並んでいたものと推定される。 中門は礎石の残りがよく、正面3間、奥行3間で、法隆寺中門のような重層の門であったと推定される。 奥行が深い(3間)のが上代寺院の中門の特色である。 南門も礎石の残りがよく、正面3間、奥行2間で、切妻造の八脚門であったと推定される。 (昭和52年)の調査で、寺域北限の掘立柱塀と石組の溝が検出された。 (昭和57年)の調査では、寺域北側を区切る塀が南方に折れ曲がる地点、すなわち、寺域の北東隅が確認された。 この結果、飛鳥寺の寺域は従来推定されていたより広く、南北が324メートルに達することが分かった。 東西の幅については、寺域北端の塀の長さは約210メートルであるが、この塀の東端は南方へ直角に折れるのではなく、南東方向へ鈍角に折れており、寺域は南側がやや広い台形状になっている。 主要伽藍はこの寺地の中央ではなく南東寄りに建てられており、寺域の東部と北部にはさまざまな附属建物が存在したと推定される。 現在の境内 [ ]• 思惟殿• 西門跡 出土品 [ ] 塔心礎納置品 [ ] 『書紀』によれば推古天皇元年(593年)、飛鳥寺の塔心礎(塔の心柱の礎石)に仏舎利が埋納された。 後世の仏塔では地表に心礎を据えるが、飛鳥寺の塔心礎は地下式で、大きさは東西2. 6メートル、南北2. 4メートルを計る。 飛鳥寺の塔は7年()に落雷で焼失した。 翌建久8年(1197年)にの僧・弁暁が記した『本元興寺塔下堀出御舎利縁起』によれば、弁暁は焼失した飛鳥寺の塔の心礎から仏舎利と荘厳具を取り出し、再び埋納したという。 これらの埋納物は、(昭和32年)の発掘調査で心礎周辺から出土した。 出土品には、(上古のよろいの一種)、馬鈴、刀子、玉類など、古墳の副葬品に共通するものが多い一方で、金銀の延板など奈良時代の寺院の鎮壇具に共通するものも含まれており、古墳時代と飛鳥時代の両方の特色をもっている。 これら出土品は日本最古の仏塔の心礎に埋納された遺物として貴重なものである。 なお、心礎の2メートルほど上方で出土した金銅製(銅に金メッキ)の舎利容器と、これを入れていたヒノキ材製の外箱は鎌倉時代の再埋納時に新たに作られたものであり、創建当初の舎利埋納状況は明らかではない。 塔心礎出土品を列挙すると以下のとおりである。 これらはにて保管・展示されている。 鉄製挂甲1領• 蛇行状鉄器1点• 青銅馬鈴1点• 刀子12点• 砥石1点• 金銅(銅に金メッキ)製品 - 耳環23点以上、歩揺146点以上、鍔付半球形金具2点、円形打出金具14点、杏葉形打出金具28点以上、鈴7点• 玉類 - ガラス小玉、ヒスイ製勾玉、瑪瑙製勾玉、ガラス製勾玉、碧玉製管玉、水晶製切子玉、銀製空玉、銀製山梔玉、赤瑪瑙製丸玉、ガラス製トンボ玉• その他 - 金延板7点、金粒1点、銀延板5点、銀粒7点、雲母片、琥珀片、蓋石片(凝灰岩製)• 鎌倉時代の製品 - 舎利容器、灯明皿、舎利容器外箱(檜材) なお、塔跡出土品の再整理の際、従来材質不明とされていたものの中に真珠の小玉14点が含まれていることがの調査で判明し、同研究所の版紀要で調査結果が公表された。 これらの小玉は直径1. 5から2ミリメートルの微細なものであるが、穿孔されている。 蛍光X線分析で主成分がカルシウムであると判明したこと、電子顕微鏡による観察で層状の構造が確認できたことから、これらの小玉は真珠であると判断された。 瓦 [ ] 『日本書紀』や『元興寺資材帳』からは、崇峻天皇元年()、百済から四種の技術分野の八名の技術者が渡来したことが知られる。 彼らが渡来してから建築用材調達が行われる同三年()までに造営技術者や工人の養育養成が行われ、造瓦分野においてはの青海波紋作りに用いる当て道具の使用痕跡が認められることから、須恵器作りの工人が動員されていると考えられている。 これらの瓦博士、またはその指導を受けた工人の製作したものと思われる7世紀前半期の瓦が飛鳥寺の寺域から出土しているが、これらは瓦当(軒丸瓦の先端の円形部分)の素弁蓮華文の文様から2系統に分類され、それぞれ「花組」「星組」と通称されている。 このうち「花組」は各弁の先端部分に小さな切り込みを入れて立体感を出している。 一方、「星組」は各弁の先端部分に1個の珠点を表す。 「花組」と「星組」の瓦は瓦当裏面の仕上げや、瓦当と丸瓦の接合方法にも差がみられる。 「星組」が玉縁式(有段式)の丸瓦を用い、瓦当裏面は「なで調整」を行うのに対し、「花組」は丸瓦に行基瓦(無段式)を用い、瓦当裏面の仕上げにあまり意を用いていない。 以上のことは、飛鳥寺創建期の瓦を製作した工人集団には2つの系統があったことを意味している。 釈迦如来像(飛鳥大仏) 飛鳥寺(安居院)の本尊で、 飛鳥大仏の通称で知られる。 (昭和15年)にに指定されており、指定名称は「銅造釈迦如来坐像(本堂安置)1躯」である。 像高は275. 2センチメートル。 『日本書紀』『元興寺縁起』に見える、鞍作鳥(止利仏師)作の本尊像であるが、後述のとおり損傷が激しく、後世の補修を受けている。 現存する像のどの部分が鞍作鳥作のオリジナルで、どの部分が後補であるかについては、後述のように諸説ある。 鞍作鳥は、金堂本尊釈迦三尊像(作)の作者であり、同三尊像のには「司馬鞍首止利」(しばくらつくりのおびととり)と表記されている。 飛鳥寺本尊像の完成は、『日本書紀』によれば推古天皇14年()、『元興寺縁起』によれば推古天皇17年()であるが、本項の「歴史」の節で述べたように後者の609年完成説が定説となっている。 『元興寺縁起』には脇侍像の存在を明記しており、本尊像の下方にある石造台座に両脇侍像用とみられる枘穴が残ることから、当初は法隆寺釈迦三尊像と同様の三尊形式だったはずだが両脇侍像は失われ、釈迦像もの建久7年()の落雷のための火災で甚大な損害を受けている。 (昭和8年)に石田茂作が調査した際の所見では、頭の上半分、左耳、右手の第2 - 第4指は鋳造後に銅の表面に研磨仕上げがされており、当初のものとみられるが、体部の大部分は鋳放し(表面の仕上げがされていない)で後世のものと思われ、脚部は銅の上に粘土で衣文をつくっており、左手は木製のものを差し込んでいるという。 また、像の各所に亀裂があり、亀裂の上から紙を貼って墨を塗ったところも見受けられた。 (昭和48年)には奈良国立文化財研究所による調査が行われたが、その結果、当初部分と考えられるのは頭部の額から下、鼻から上の部分と、右手の第2 - 第4指のみだとされた。 右手の第2・3・4指については、掌の部分にほぞ差しされていることが撮影によって確認されている。 顔貌表現のうち、眼の輪郭線や眉から鼻梁に至る線には明らかに当初のタガネ仕上げが残っており、鍍金もわずかに残っている。 頭部の下半分は造像当初から溶銅の回りきらなかった部分に象嵌や補鋳を行っていた可能性がある。 本像を調査した久野健は、左の掌の一部は当初のものであるとし、左足裏と左足指の一部は焼け跡がみられることから当初のものではないかとしている。 当初部分とみられる頭部について見ると、面長の顔立ちや杏仁形(形)の眼の表現などは現存する他の飛鳥仏に共通する表現が見られる。 右手の指の表現を見ると、本像では指の関節部分を1本の刻線で表しているのに対し、法隆寺金堂釈迦如来像は同じ箇所を2本の刻線で表していることが注意される。 体部のほとんどが後補であるが、その服制には古様が感じられ、焼失前の形態を踏襲している可能性がある。 田邊三郎助によると、本像の大衣が左肩 - 背 - 右肩と回った後、体の前面を覆って再び左肩にかかる形は北魏の古像にみられ、胸の部分に内衣の襟をV字状に表す点は百済の像に例があり、その下に見える蝶結びのような紐の結び目も法隆寺の戊子年()釈迦及び脇侍像などにみられる古い形式であるという。 (24年)7月にの大橋一章らの研究チームが行った調査結果が同年10月に公表されたが、これによると現存像の大部分が造立当初のものである可能性が高いという。 大橋らは、造立当初とされる部分と補修とされる部分に蛍光X線による分析を行ったが、その結果、両者の元素組成には顕著な差異は見られなかった。 また、上記分析により(Au)が検出された伝・光背断片をX線回折分析したところ、同断片が火災に遭ったことと鍍金されていたことが推測された。 また鋳造専門家の調査でも銅を複数回注いだ継ぎ目の跡があり、奈良時代以前の技法としている。 教授の藤田穣を代表者とする研究チームは、(平成27年)・(平成28年)にあらためて本像に対する蛍光X線分析(XRF分析)、X線回折分析を行うとともに、像内の調査を行った。 (平成29年)に発表された同調査の報告書は、飛鳥大仏について、体部の大部分が後補であるとしている。 同報告は、本像の面部(オリジナルが残る)と体部(大部分が後補)の金属組成に大きな差がみられないことについては、建久7年(1196年)の火災で溶けた銅を再利用した可能性があるとし、像のどの箇所がオリジナルでどの箇所が後補であるかについては、以下のように述べている。 面部については、従来の見解では両眼を含む上半部が当初のものとされてきたが、今回の調査の結果によればもう少し広く、頬や顎を含む下半部も当初のものとみられる。 頭髪部については、主に技法的観点から、肉髻(にっけい、仏像の頭頂の椀状の盛り上がり)の大部分が当初作であるほか、地髪部の一部(正面髪際部の螺髪)も当初のものとみられる。 当初のものとする説もあった左耳については判断を保留する。 右手は、第2〜第4指のみでなく、掌の上半部を含めて飛鳥時代の作とみられる。 ただし、鉛の含有率が高いなど、像の他の部分とは金属組成が異なることから、本来は他の仏像に属していた手の部分を転用した可能性もある。 当初のものとする説もあった左手の一部、左足裏については、今回の分析結果からは、当初のものと結論づけることはできない。 本像は創建当初に据えられた石造台座の上に安置されている。 発掘調査の結果、この石造台座は創建時から動いていないことが明らかになった。 石造の台座に銅造の仏像を安置するのは不自然だとして、久野健らは当初の中金堂本尊は蘇我馬子所持の石仏の弥勒像であり、それが後に本像と入れ替わったものだと想定した。 (昭和56年)の再調査で、この台座は花崗岩ではなく、竜山石(凝灰岩)製であることが分かった。 また、その上の須弥座は後補と思われていたが、内部に当初の竜山石(凝灰岩)製の須弥座の一部が残存していることが分かった。 このことから、石造の台座は当初から銅造釈迦如来像を安置するために造られたものであり、飛鳥大仏は飛鳥時代から同じ場所に安置されていることがあらためて確認された。 銅造の仏像を石造の台座上に安置したのは、銅造の重量を支えるだけの台座を銅で造る技術が当時なかったためではないかと言われている。 文化財 [ ] 重要文化財(国指定) [ ]• 銅造釈迦如来坐像(本堂安置)(彫刻) - (昭和15年)10月14日指定。 国の史跡 [ ]• 飛鳥寺跡 - (昭和41年)4月21日指定。 札所 [ ] 客番 -- 9 飛鳥寺 -- 10 10 -- 11 飛鳥寺 -- 12 アクセス [ ]• より岡寺前行バス10分、飛鳥大仏バス停下車。 周辺 [ ]• 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• 古代の寺院には山号はなく、山号は後世付けられたものである。 なお「鳥形山」は寺の北東、(あすかにいますじんじゃ)のある山を指す。 2年()のによる建立発願の記事では「法興寺」、14年()の丈六仏完成の記事では「元興寺」と表記され、のあった元年()の記事中には「飛鳥寺北路」「飛鳥寺西槻」の表記がみられる。 「露盤」とは塔婆の屋根上にある相輪の基礎部分を指すが、古くは相輪全体を指して露盤といった。 「丈六光」は「丈六(一丈六尺)の仏像の光背」の意味。 一丈六尺は約4. 8メートルで、坐像の場合はその半分のを指す。 詳細は参照。 『元興寺縁起』本文及び「露盤銘」にも百済からの技術者派遣についての言及があるが、技術者の人数はそれぞれ異なっている。 『日本書紀II』井上光貞監訳、佐伯有清・笹山晴生訳、〈中公クラシックス〉、2003年、320頁。 「この歳、百済国は、使と、僧 恵総 ( えそう )・ 令斤 ( りょうこん )・ 惠𥦽 ( えしょく )らとを遣わし、仏の舍利を献上した。 百済国は、 恩率 ( おんそつ ) 首信 ( すしん )・ 徳率 ( とくそつ ) 蓋文 ( こうもん )・ 那率 ( なそつ ) 福富味身 ( ふくふみしん )らを遣わして調をたてまつり、あわせて仏の舎利と、僧 聆照律師 ( りょうしょうりっし )・ 令威 ( りょうい )・ 恵衆 ( えしゅ ) (恵総と同一人か)・ 恵宿 ( えしゅく ) (惠𥦽と同一人か)・ 道厳 ( どうごん )・ 令開 ( りょうけ ) (令斤と同一人か)ら、それに 寺工 ( てらたくみ ) (寺院建築の技術者) 太良未太 ( だらみだ )・ 文賈古子 ( もんけこし )、 鑪盤博士 ( ろばんのはかせ ) (仏塔の相輪部分の鋳造技術者) 将徳 ( しょうとく )、 瓦博士 ( かわらのはかせ ) 麻奈文奴 ( まなもんぬ )・ 陽貴文 ( ようきもん )・ 㥄貴文 ( りょうきもん )・ 昔麻帝弥 ( しゃくまたいみ )、 画工 ( えかき )を献上した」 出典 [ ]• 大脇 1989 p. 浅井 1999 p. 木下正史『飛鳥幻の寺、大官大寺の謎』(角川書店、2005)、p. 19; 黒崎直『飛鳥の宮と寺』(日本史リブレット71)(山川出版社、2007)p. 4、ほか諸資料• 大脇 1989 p. 大脇 1989 p. 大橋 1996 p. 133• 大橋 1997 pp. 135 - 136• 浅井 1999 p. 大橋 1997 pp. 178 - 179, 204 - 205• 大脇 1989 p. 大脇 1989 pp. 45 - 52• 大脇 1989 p. 浅井 1999 p. 『日本書紀』天武天皇9年3月条• 本郷真紹「古代寺院と学僧」、根本誠二 他編『奈良平安時代の〈知〉の相関』(岩田書院、2015年)• 竹内亮「大寺制の成立と都城」『日本古代の寺院と社会』(塙書房、2016年)• 大脇 1989 p. 大脇 1989 pp. 25 - 27, 36• 大脇 1989 pp. 28 - 30• 大脇 1989 pp. 31 - 32• 大脇 1989 pp. 33 - 34• 大脇 1989 p. 35 - 36• 大脇 1989 p. 37 - 38• 、明日香村・関西大学文学部考古学研究室、2013• 諫早直人「舎利荘厳具から見た飛鳥寺と王興寺」(講座資料(特に資料3)、2017年2月17日、於大阪韓国文化院)、NPO法人国際文化財研究センターサイト• : 1958年 『』p. 納谷守幸「軒丸瓦製作手法の変遷 - 飛鳥地域出土の7世紀前半代の資料を中心として - 」『明日香村文化財調査研究紀要』第4号、明日香村教育委員会、2004(参照:)• 大脇 1989 pp. 42 - 43• 大脇 1989 p. 43 - 44• 久野 1984 pp. 49 - 52• 久野 1984 p. 大脇 1989 p. 44 - 45• (藤田ほか、2017)、pp. 85, 97, 98• (藤田ほか、2017)、pp. 63, 85• (藤田ほか、2017)、pp. 63, 87• (藤田ほか、2017)、p. (藤田ほか、2017)、pp. 63, 64, 65, 87• (藤田ほか、2017)、p. 大脇 1989 p. 54 - 56• - 国指定文化財等データベース()• - 国指定文化財等データベース() 参考文献 [ ]• 大脇潔『飛鳥の寺』(日本の古寺美術14)、保育社、1989• 浅井和春「新しき神の出現 飛鳥寺釈迦如来坐像」『朝日百科 日本の国宝別冊 国宝と歴史の旅1』、朝日新聞社、1999• 『飛鳥寺』 「美術文化シリーズ」、1987• 『飛鳥の文明開化』 「歴史文化ライブラリー」、1997• 『古代を語る9 飛鳥寺と法隆寺』 吉川弘文館 2009• 『飛鳥 水の王朝』 2001• 大橋一章「飛鳥寺の発願と造営集団」『早稲田大学大学院文学研究科紀要』42(第3分冊)、1996(オンラインで閲覧可能)• 久野健「飛鳥大仏論」『日本仏像彫刻史の研究』、吉川弘文館、1984(初出は『美術研究』300・301号、1976)• 藤岡穣・犬塚将英・早川泰弘・皿井舞・三田覚之・八坂寿史・閔丙贊・朴鶴洙「飛鳥寺本尊銅造釈迦如来坐像(重要文化財)調査報告」『鹿園雑集』19、奈良国立博物館、2017(参照:) 関連項目 [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。 飛鳥式伽藍配置を中国の住宅配置と比較しその影響を指摘する説がある。 外部リンク [ ] オープンストリートマップに があります。

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鞍作止利

止利仏師 鞍作鳥

飛騨市河合町にこんな看板があった。 止利仏師というのは鞍作鳥(くらつくりのとり)とも呼ばれ、法隆寺の釈迦三尊像や飛鳥寺の釈迦如来像(通称:飛鳥大仏)の作者とされる飛鳥時代の仏師。 ここ河合町には彼の生誕伝説が残っていて、天生峠には止利仏師の屋敷跡といわれる場所もある。 昔々のことじゃ。 「しのぶ」というそれはそれは醜い村娘が住んでおった。 あまりの醜さに嫁の貰い手がなかったそうな。 ある時しのぶが、月の光が映った川の水をすくって飲みほすと、あら不思議。 妊娠してしまったそうな。 生まれた子供は赤毛でギョロ眼、鼻がひどく出っ張っておった。 これは鳥に似ているということで、その子供は「鳥」と呼ばれるようになったということじゃ。 というのが伝説のあらすじ。 月の光が川面に映ったので「月ヶ瀬」、天から子供を授かったので「天生」という、このあたりの地名の由来にもなっている。 鳥に似ていたという止利仏師の容貌も興味深い。 止利仏師の祖父は、日本に仏教を持ち込んだとされる渡来人・司馬達等といわれているので、外国人風の顔だったのかもしれない。 これほどの山の中に、こんな伝説が残っているとは。 いろいろ想像するのも楽しい。 心はすでに飛鳥時代である。 天生地区のとなり月ヶ瀬地区には「飛騨匠」碑がある。 止利仏師は「飛騨匠の祖」と考えられている。 石碑の横には案内板もあったのだがご覧の有様。 文章もやたら古めかしい。 いったいいつ建てられたんだろうか。 これは余部の里(あまりべのさと)。 今も残る古代の住居・・・というわけではなく飛鳥時代の住居を再現したキャンプ場だったりする。 新しいのか古いのかよく分からない施設だ。 このあたりには他にも「匠童夢」「レジェンドあすか」など、止利仏師伝説を意識したらしい施設があった。 静かで良い所ですよ。 山奥だけど。

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鞍作止利の伝説(飛騨)と法隆寺

止利仏師 鞍作鳥

鞍作止利は、飛鳥時代を代表する仏師で、法隆寺金堂釈迦三 尊像をはじめとして、いわゆる止利様式と呼ばれる多くの仏像を残している。 止利の名が正史に初めて見られるのは、『日本書紀』の飛鳥元興寺の造像に関する記述である。 こ れによると推古天皇十三年(605)、飛鳥元興寺において丈六の金銅仏と繍仏(布に刺繍したもの)の制作を鞍作鳥が命じられ、翌年金銅仏を完成したが、像 が大きすぎて、扉を壊さないと安置できそうもなかった時、止利の工夫でうまく堂内に安置できたという。 止利はこの時の功績により、推古天皇から「汝が献 (たてまつ)る所の仏本(ほとけのためし)、則ち朕が心に合(かなえ)えり」という詔勅をおくられ、さらにその功により大仁位と近江国坂田郡の水田二十町 を賜り、これをもって天皇のために金剛寺(南淵坂田尼寺)を建立したと記されている。 この時、止利が天皇より賜った詔の中で、止利の父が多須奈(たす な)、祖父が司馬達等(しばたつと)であることがわかる。 書紀によると司馬達等は蘇我馬子が豊浦(とゆら)寺を開く際に、馬子の求めに応じて自分の娘嶋女 を弟子二人と共にわが国最初の尼僧として出家させ、自分自身も仏舎利を献じて崇仏の心を深めたという。 また多須奈は、月明天皇のために坂田寺の建立と丈六 仏の造仏を発願し、後に日本最初の僧として出家、徳斉法師と名のったと伝えられる。 司馬達等は『扶桑略記』によると坂田寺の縁起に、継体天皇十六年(522)に中国・南梁(なん りょう)から来朝した人と伝えるという。 しかし、他に多須奈が百済の仏工だったとする記述もあり、また、『興福寺官務牒疏』には司馬遠等が百済国の人とあ ることなどから、鞍作部は継体朝より以前に渡来した百済系渡来人の一族と考えられる。 鞍作部は、その姓が示すように馬の鞍を造っていた一族であろうが、達 等の時代には金工や鋳造・木工・繍工・革工をも含めた技術者を統括する立場にあったと考えられる。 また、達等らは前述のように仏教に対する信仰も深く、そ の中に育った止利が、仏教に帰依し、造仏に関係するようになったのも自然の成行だったのであろう。 雄略七年条にみえる新漢(いまきのあや)の鞍部堅貴、 『元興寺縁起』に引く塔露盤銘に記された鞍部首加羅爾(からに)も同じ鞍作部の一族と考えられる。 飛鳥元興寺は、崇仏を背景に絶大な勢力を持っていた蘇我馬子が建立した寺であるが、馬子の子、 入鹿は『日本書紀』に、「更の名は鞍作」「鞍作臣」と記されており、また入鹿の乳母は鞍作部の出身者と伝えられる等、鞍作部と蘇我氏は非常に密接な関係に あったと考えられている。 止利が制作した最初の仏像は、先に述べた飛鳥元興寺(飛鳥寺)の丈六釈迦如来像であるといわれている。 しかし、『元興寺縁起』に引く飛鳥寺本尊光背の銘で あると考えられる「丈六光銘」及び塔露盤の銘である「塔露盤銘」には止利の名が見えないことや、飛鳥寺の金堂は推古四年(596)にはすでに出来上がって いたにもかかわらず、本像が出来たのは推古十七年(609)ごろで、その間本尊がなかったとは考えにくいという点からこれを疑問視する向きもある。 また、 飛鳥大仏の衲衣のつけ方が、止利仏師の制作である法隆寺の釈迦如来像とは全く違っている事も指摘されている。 すなわち、上半身を覆う大衣の端が、飛鳥大仏では、最後に 左上膊から左前膊部に懸けられて背面にもその端が正しく表わされているのに対し、法隆寺金堂の釈迦如来像では、大衣の端を左前膊部にのみ懸けているにも拘 らず背面にも衣の端を表わす等、大衣の着衣法を正しく理解していなかったものと思われ、同一人物の造像とは考えられないというものである。 現在の本尊釈迦如来像は、鎌倉時代の初めに火災に遭ってお り、顔の一部や右手指などごく一部を除いて後補のものにかわっているが、独特な僧祇支の付け方など、かつての百済の都、韓国の扶余に近い瑞山磨崖仏等にそ の例が見られることから、後補の部分に関しても造立当初の服制を踏襲しているものと考えられる。 確かに止利によって制作されたことがわかるのは、法隆寺金堂釈迦三尊像である。 本像は、大きな 舟形光背で三尊を覆う、いわゆる一光三尊形式の金銅仏で、この光背の裏に刻まれた銘文により、制作経緯を知ることができる。 銘文は十四字十四行にわたる長 文で、次のように要約できる。 推古天皇二十九年(621)に聖徳太子の母后間人(はしひと)皇后が亡くなられ、翌年太子と太 子妃も病床につかれたため、王后や王子、諸臣たちは太子の姿を写した等身の釈迦像の造立を発願して病気平癒を祈願した。 しかし、その甲斐なく、太子妃、太 子と相次いで亡くなられたため、翌年本願のごとく釈迦三尊像を司馬鞍首(しぱくらのおぴと)鳥仏師に命じて造らせた。 すなわち、この銘文により本像は推古天皇三十一年 (623)に止利仏師によって造られたことがわかる。 本像は、アルカイックスマイルと呼ばれる特異な微笑を浮がべた仰月形(ぎょうげつけい)の唇や 杏仁形の眼、ふかぶかと両肩を覆う服制などに、典型的な止利様式を示している。 背面の衣文はほとんど省略されているが、側面や正面にははっきりとした衣文 を表わし、特に正面は、台座から大きく垂れた懸裳(かけも)に左右対称の図式的な衣文を刻んで、釣合いのとれた像容を示している。 また、側面は、懸裳を弓 形に大きく前面に反らせ、シャープな面を見せている。 両脇侍は、本尊と異なり背面を全く省略されてレリーフ像のように造り出されているが、天衣の先端を左 右に強く張り出した造形は十分な立体感を与えている。 この像は、ろう型鋳造による制作である事が知られるが、鋳造の際に各所に鋳損じの部分を鋳掛け したり象嵌した痕がみられ、止利をしてもこの大きさの鋳造は困難を伴ったものと思われる。 この他に、止利あるいは止利を長とした工房で造られたと考えられる像には、法隆寺戊子(ぽし) 年銘の釈迦如来及び脇侍像がある。 本像は、光背の裏に刻まれた戊子年の銘により、推古三十六年に造られた像と考えられる。 本像は印相や衣文のつけ方など、 金堂釈迦三尊像に非常に近いものをもっており、一光三尊形式の光背も線彫であるが、ほぼ同様の文様を示している。 止利派の仏像は、この他法隆寺宝蔵殿の金 銅菩薩像や、四十八体仏中のいくつかに見ることができる。 止利派の造立と考えられる金銅仏の技法的な特徴は、像底から頭部まで空洞になっており、銅の厚み も薄手で均一に仕上がっていること、また鋳造の際に中型を固定するのに使用した鉄心を鋳造後に取り去ってあることなどで、他の金銅仏に比べて卓越した技法 が感じられる。 止利派の仏像の祖型となった形式については、厚手の服制や面長な面相などから、中国で460年ごろに開墾(かいさく)された雲岡石窟の中期以後の諸像にそ の源流が求められていた。 雲岡石窟の第十六窟の本尊や中期以降の諸像のとる、僧祇支(そうぎし)の上に厚手の天衣を両肩を覆ってつけ、衣の端を左腕にかけ る着衣法は、かつては北魏皇帝の服制をとり入れたものと考えられていた。 しかし、近年に至って、四川省茂県で発見された南斉の永明元年(483)銘の如来 像にもすでにこの着衣法が見られることから、これは北魏特有の形式ではなく、あるいは南朝で工夫され、北魏に伝えられたものと考えられている。 また、当時日本に仏教文化を伝えた朝鮮の百済は、高句麗と の敵対関係から、北魏よりもむしろ海路を通じて南斉や梁などの南朝と密接な交流を行っており、梁から寺工や仏工を招いていることも知られている。 このよう に、飛鳥彫刻すなわち止利派の仏像の祖型は中国の南朝に始まり、一方では北魏に伝わり、また一方では百済を経て日本に伝わったものと考えられる。 止利は、これらの多様化した様式を、卓越した造型感覚に よって統一的に完成させ、法隆寺釈迦三尊像に至ってこれを極めたと言えるであろう。 しかしながら、日本の仏教文化の中に優れた造型感覚で一時代を築いた止 利の造仏も、大化の改新の前後を境としてその遺品をみいだせなくなる。 これは、中国の様式の変遷により、北魏様式とは異なる北斉・北周・隋などの様式が伝 えられたことに加えて、遣唐使がそれまでの外交的な活動から一歩進んで文化面でも実質的な交流を行ない、半島からの渡来人系のルートとは異なった様式の展 開があったためと考えられる。 また、止利一族が朝廷から重んぜられていた裏には、仏教を擁護し政界に大きな影響がを持っていた蘇我氏との深いつながりがあ り、その蘇我氏が大化の改新で失脚したことも、止利様式が歴史の舞台からその姿を消す一因となったのであろう。 その意味でも大化の改新は、政治史上だけで なく、文化史上も大きな改新をもたらしたと言えるであろう。

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