ドリフターズ 荒井 注。 荒井注のドリフ脱退理由は?妻は?死因は?CM?カラオケで失敗!

荒井注 引き際や脱退理由が判明!ドリフターズに不仲説?

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荒井注 引き際の報道内容 荒井注さんの 引き際について下記のようにデイリー新潮で報道されました。 ドリフターズといえば、やはり「8時だヨ! 全員集合」である。 1969年から16年も続いたお笑いの公開生放送番組だ。 ドリフターズは番組の高視聴率に支えられて人気も鰻(うなぎ)登り、当時はまさに飛ぶ鳥を落とす勢いであった。 しかし、荒井は5年で番組だけでなくドリフターズからも身を引いてしまったのである。 「とにかく忙しかったよねえ。 本番は土曜日なんだが、休みは日曜日だけで、月曜日からまたすぐに次の番組の準備を始めるんだ。 火曜日までにスタッフらと深夜までふざけながら言いたいことを言いあって、台本のネタを探すんだよ。 明け方までやることもザラだったね。 台本ができたら立ち稽古、水曜と木曜に小道具を発注し、金曜にセットを作り、土曜の本番は朝10時から現場で稽古。 そしたらもう本番だよ。 あんなにキツイ時期はなかったね。 そもそもが僕はなまけ者で、忙しくしているのは好きじゃないし、性にも合わない。 だから5年といえども自分でもよくやったと思うよ」 ただ忙しいだけじゃなかった。 ケガも多かった。 客から笑いをとるために、体をはったコントが少なくなかったからだ。 大量の水が降ってきたり、ブリキのたらいが頭を直撃するのは当たり前の世界で、誤って水ごとバケツが落ちてくることも珍しくなかった。 実際に荒井の体には縫った跡が何カ所も残っていた。 常に満身創痍で仕事にのぞんでいたのだ。 とにかく、ものがあらゆるところから落ちてくる。 反射神経も要求されるドリフの笑いに、荒井はすぐに限界を感じはじめていたのだ。 体力的にも精神的にも追い込まれていた荒井は、ドリフをやめたことを全く後悔していなかった。 引用元:デイリー新潮 2020年2月19日 スポンサーリンク ドリフ脱退や引き際理由 ドリフターズのメンバーだった荒井注さんが脱退を決意した理由や引き際が報じられた事で判明しました! 簡単にいうと 超多忙であったこと と体力的にもついていけなくなったということです。 忙しい事が性に合わなかったのです。 元々は学校の先生になるために教員免許も取得していたくらいですので落ち着いた仕事をしたかったのだと思います。 荒井注さんもよく5年も続けられたと自画自賛していたのでホントはもっと早くの脱退を考えていたのだと思います。 テレビで人気者になりたくて芸能界に飛び込んでくる人たちがたくさんいる中でトップグループにいる時に辞めるのはもったいない感じもします。 でも落ち目になって干されてから引退するよりはトップの座にいた時に去る方が引き際としては漫画のヒーローみたいでカッコいいです。 よってドリフを脱退した理由はいかりや長介さんなどのメンバーとの 喧嘩や不仲ではなく忙しすぎて体力的にもついていけなくなったからという事でした。 スポンサーリンク ドリフ脱退する前の荒井注の様子 荒井注さんがドリフ時代に 8時だよ全員集合に出演していたときの動画です。 この頃は土曜日が公開本番で日曜だけが休みになって月~金まで打ち合わせや稽古などしていたようです。 ドリフターズの『8時だョ! 全員集合』。 」が大人気でした。 『痛快! けんじ、というお手を持ったタレントが後釜にスタンバッていたんだけどね。 結局、志村が入って高木ブーも抜けなかった。 でも、その後はたはマニアックでコアなピン芸人になったけれど。 ぶら下がっている人は、カッコ悪い。 でも、それを自分で判断出来ない人が多いと思う。 そこは間違えないでほしい。 ガキの頃『This is a pen. 』と荒井注が言うだけでお茶の間は大笑いだった。 何気ない言葉でもその言い方や間合い等々で笑いにできるのは天性のものだろう。 注さんが亡くなられて。 志村世代ですが、荒井注さんも面白かったんですね!リアタイで見たかったな。 のニュースを聞いた時は大笑いしました。 人気絶頂だったドリフターズを脱退する決心をした荒井注さんの男の引き際について考えさせられる内容でありました。 マンガのヒーローみたいにカッコいい去り方だと思いますね。

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元ドリフのメンバー!荒井注の定番ギャグ「なんだ馬鹿野郎」

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Sponsored Link 出身は?身長は?本名は? 荒井さんは、1928年7月30日生まれ、 東京都のご出身、 身長158センチ、 学歴は、 立教大学文学部宗教学科中退後、 二松學舍大学文学部国文学科卒業、 趣味は、釣り、 資格は、教員免許、 ちなみに、本名は、荒井 安雄(あらい やすお)です。 「クレージーウエスト」から「碇矢長一とザ・ドリフターズ」へ 荒井さんは、大学卒業後、脚本家を目指しながら、 「クレージーウエスト」のバンドマンを務めていたのですが、 当時、バンド 「碇矢長一とザ・ドリフターズ」のリーダーとして活動していた、いかりや長介さんが、突如、主要メンバー4名から脱退され、新たなメンバーを探されており、 1964年9月、 トリスのおじさんみたいな面白い顔をした奴がいる との評判を聞きつけた、いかりや長介さんからスカウトされ、いかりやさんのバンド 「碇矢長一とザ・ドリフターズ」に加入されています。 (ちなみに、この時期、荒井さんの他に、高木ブーさんと仲本工事さんが加入されています。 ) オルガンを担当 こうして、1965年、 「ザ・ドリフターズ」と改称した、 「碇矢長一とザ・ドリフターズ」は、いかりやさん、荒井さん、さん、さん、さんで、活動をスタートし、 (荒井さんはオルガン(ピアノ)を担当し、当時流行していたロカビリーやカントリーなどを演奏) 池袋、銀座、横浜などのジャズ喫茶回りをする日々を送ります。 (この頃の収入は5人で月25万円) そして、翌年の1966年には、初来日公演の前座に参加し、 「ロング・トール・サリー(Long Tall Sally 」(放題:のっぽのサリー)を演奏。 ただ、荒井さんは、 「クレイジーウエスト」時代、もともとギターをされていたにもかかわらず、ピアノに欠員が出て、急遽ピアノに転向されたため、ロカビリーのスリーコードしか弾けず、演奏できるレパートリーは数少なかったそうで、 いかりやさんは、後に、ご自身の著書に、 荒井の背の低さ(158センチ)とピアノの演奏力をチェックしなかった事が失敗だった。 と、綴られています。 (左から)荒井さん、仲本工事さん、いかりや長介さん、 加藤茶さん、高木ブーさん。 Sponsored Link 「This is a pen! 」「何だ、バカヤロウ! 」が大ウケ その後、 「ザ・ドリフターズ」は、いかりやさんの方針で、徐々にコメディ色の強いバンドとなり、1969年には、 「ザ・ドリフターズ」主演のバラエティ番組 「8時だョ! 全員集合」がスタートするのですが、荒井さんは、たちまちお笑いの才能を発揮。 威張り散らすいかりやをシラっとした目で見、無視をし、いかりやに怒られてふてくされながらギャグを言う という「ふてぶてしい」キャラがウケたほか、 荒井さんから次々と飛び出した、 「This is a pen! 」 「何だ、バカヤロウ! 」 「文句あるか! 」 「何見てんだよ! 」 などのギャグは、観客に大ウケし、流行語になるなど、一大ブームを巻き起こし、絶大な人気を博したのでした。 (ちなみに、「何だ、バカヤロウ! 」は、ピアノ担当にもかかわらず、銀盤が弾けないことを加藤さんにからかわれた時に、言い返した言葉が発端だったそうです。 ) こうして、 「8時だョ! 全員集合」は、荒井さんの人気とともに、一躍、人気番組へと成長し、最高視聴率50. 5%を叩き出すなど、人気絶頂の時を迎えていたのですが・・・ 1973年6月、突然、荒井さんが、 「ザ・ドリフターズ」を脱退したいと、いかりやさんに申し出たのです。 一体、荒井さんに何があったのでしょうか? に続く.

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荒井注とは (アライチュウとは) [単語記事]

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Sponsored Link 脱退理由は? 「8時だョ! 全員集合」が最高視聴率50. 5%を記録するなど、 「ザ・ドリフターズ」が人気絶頂だったにもかかわらず、1973年6月、突然、脱退を申し出られた荒井さんは、 一旦は、さんに慰留されて、保留されるものの、1974年3月、ついに脱退されます。 そして、その気になる理由ですが、 いかりやさんのワンマンさに嫌気が差した、ギャラの配分が不平等だった、など、様々な噂が流れましたが、実際には、 「体力の限界」が、本当の脱退理由だったようで、ある芸能記者が、 荒井は本当に疲れ切っていた。 40代半ばの身としては、15歳も下のらと一緒に、毎週、舞台の上で跳びはねるのがつらくなっていたんです。 それほど欲がある人じゃないし、この辺でいいやという気持ちになったんでしょう。 と、明かされているほか、 いかりやさんも、後に、 長さん、オレはもう十分に働いた。 オレ自身も、これだけ働く人間だとは思わなかった。 もう遊びたい。 今すぐ抜けると迷惑かかるだろう。 だから、あと半年、奉公するよ。 と、荒井さんが話していたことを明かされています。 (ちなみに、荒井さん脱退後は、いかりやさんの付き人だった、さんが 「ザ・ドリフターズ」に加入されています。 ) 脱退から半年後にはテレビドラマ「時間ですよ・昭和元年」で復帰 こうして、 「ザ・ドリフターズ」を脱退した荒井さんは、同時に、芸能界も引退され、大学時代の友人たちの家を回っては、全国各地の海や川で、日がな一日、釣りを楽しむなど、かねてからの夢だった、釣り三昧の毎日を送られていたのですが・・・ 同年8月、そんな荒井さんのもとに、テレビドラマ 「時間ですよ・昭和元年」への、出演依頼が舞い込んできます。 (役どころは、さんの夫役で、プロデューサーの久世光彦さんが、荒井さんのとぼけたキャラクターを気に入ってオファーしたそうです。 ) そして、悩んだ荒井さんは、真っ先にいかりやさんに相談されると、いかりやさんからは、 ぜひ出るべき と、言われたそうで、 荒井さんはこのオファーを受け、早くも、芸能界へ復帰。 「時間ですよ・昭和元年」より。 (左から)さん、 森光子さん、荒井さん、さん。 ちなみに、荒井さんが芸能界を引退される時には、 復帰は考えていない とおっしゃっていたのですが、それにもかかわらず、約半年後に復帰したため、 いかりやさんほかドリフのメンバーが怒っている と報道されたことがありましたが、これはデマだったようです。 ) カラオケで失敗? ところで、荒井さんは、1993年頃、カラオケ店を経営しようと思いつき、多額の費用を投じて建物を完成させているのですが、 いざ、カラオケ機器を室内に持ち込もうとすると、設計ミスで部屋の入り口が小さすぎてカラオケ機器を入れることが出来ず、最終的には経営を断念。 そして、この模様は、ワイドショーにも取り上げられるのですが、荒井さんは、取材に訪れたレポーターに、 最後に、今のお気持ちを。 (ただ、荒井さんは病院嫌いだったため、入院しても1週間ほどで、退院するなど、病院を転々をされていたのだとか。 ) ただ、そんな中、富士フイルム 「フジカラーお正月を写そう」のCM出演(2000年のお正月向け)のオファーが舞い込みます。 実は、当初、荒井さんは出演メンバーに含まれておらず、ドリフのメンバー5名と女優のさんで、七福神役を演じられることになっていたのですが、 全員合わせて6人しかおらず、もう1人の人選を考えた末に、元メンバーだった荒井さんに白羽の矢がたったそうで、 スタッフがダメ元でオファーすると、(これまで荒井さんはドリフの仕事を断っていたため)荒井さんが快諾されたのでした。 (後列左から)加藤茶さん、志村けんさん、田中麗奈さん、さん、 さん、(前列左から)いかりや長介さん、荒井さん。 そして、1999年12月初旬に撮影が行われると、荒井さんは、メンバーとの久しぶりの再会に、手を取り合って昔話に花を咲かせたそうで、自身の病気(腹水を抜きながらの撮影)さえも、 オレのおなかは3リットル腹水がたまっているんだ。 バランス取りづらいんだよ。 と、ネタにして、志村けんさんを笑わせておられたのですが・・・ 死因は? その後、2002年2月に入ると、体調が悪化し、ほとんど寝ている生活となってしまいます。 ただ、荒井さんは、大のお風呂好きから、1日5~6時間も入浴されていたそうで、2月8日も、午後11時頃から入浴されていたのですが、奥さんが、翌日9日の朝6時30分に、浴槽の中で意識不明の荒井さんを発見。 すぐに119番通報されるも、救急隊が駆けつけた時には、荒井さんはすでに息を引き取っていたのでした。 (死因は 「肝硬変」だったそうです) Sponsored Link 妻は? そんな荒井さんの気になるプライベートですが、荒井さんは、結婚を3度されています。 まず、最初の奥さんは弘子さんという方で、1958年に学生結婚されるのですが、弘子さんは1983年に他界されてしまいます。 その後、荒井さんは、1985年に、32歳年下の女性と再婚されるのですが、早くも2年後の1987年には離婚。 そして、1991年、38歳年下の元信用金庫職員だった、まりさんと再々婚(最後の奥さん)。 荒井さんとまりさん。 お二人の馴初めなど、詳しいことは分かりませんでしたが、 奥さんは、体調を崩された荒井さんを、献身的に看護されていたようで、 荒井さんの最後の仕事となった、富士フイルム 「フジカラーお正月を写そう」の、CM撮影にも付き添われていたのだとか。 また、入浴時間が長い荒井さんの様子を、いつも1時間おきに見に行かれていたそうで、荒井さんが亡くなった日は、たまたま、看病疲れからうたた寝してしまい、荒井さんの発見が遅れてしまったそうですが、 まりさんは、そのことをひどく後悔し、自宅2階の和室に安置された荒井さんの遺体に、片時も離れず付き添われていたそうです。 さて、いかがでしたでしょうか? 人に迷惑をかけず、お互いを尊重して好きなように生きる というのが、荒井さんの人生哲学だったそうですが、 まさにその通り、荒井さんは、周りに気を遣いながらも、好きなように生き、大好きなお風呂で生涯を終えられたのでした。 この機会に是非、そんな荒井さんの、出演作品をご覧になってはいかがでしょう。

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