オスマン 帝国 歴史。 「オスマン帝国: 皇帝たちの夜明け」Netflixオリジナル作品の歴史ドキュメンタリーにマジで注目したい!!

オスマン帝国がキリスト教徒と共生できた理由

オスマン 帝国 歴史

それでは視点を歴史に移して、イスラム教が勃興した時代から、ムスリムと非ムスリムの関係を見ていきましょう。 7世紀にイスラム教が成立すると、新興のムスリム勢力は当時の超大国であったイランのサーサーン朝を滅ぼし、同じく超大国のビザンツ(東ローマ)帝国が支配するシリア・エジプトを征服します。 これほど短期間にムスリム勢力が拡大しえたのは、なぜでしょうか。 宗教的情熱と、略奪への経済的動機が、ムスリム軍を強く突き動かしたのは確かです。 その一方で、征服される側の人々にも理由がありました。 当時のシリアやエジプトには、合成論派のキリスト教徒が居住していましたが、彼らはビザンツ帝国本国からは異端とされ、迫害されていました。 神の言葉による「共存」の保証 これに対してムスリムは、クルアーンやハディースの規定に則って、キリスト教徒やユダヤ教徒を同じ一神教を奉じる「啓典の民」とみなし、彼らの自治と信仰を認めていました。 そのため、当地のキリスト教徒は、ビザンツ帝国の支配よりもムスリムの征服をむしろ歓迎したのです。 もちろん、ムスリムは、単なる善意で、キリスト教徒の権利を認めたわけではありません。 まず、キリスト教徒は、ムスリム政府に人頭税(ジズヤ)と呼ばれる税金を納める必要がありました。 政治参加が制限されたり、教会の新築に制限があったり、裁判での証言能力がムスリムより劣るなど、さまざまな条件も課されていました。 この制度は、オスマン帝国にも受け継がれました。 非ムスリム(オスマン帝国の場合は、正教徒、アルメニア教徒、ユダヤ教徒が主要な非ムスリム共同体でした)は、こうした制限を受けいれつつ、帝国政府の庇護のもとで商業や学芸に従事したのです。 ユダヤ教徒たちは、その才能を帝国のために存分に発揮し、帝国に富や知識をもたらしました。 自らの領域に異教徒の集団が集住し、共存を実現させた地域は、イスラム世界以外にも存在します。 キリスト教世界で有名なのは、シチリア島でしょう。 12世紀に成立したキリスト教国であるシチリア王国のもとでは、アラブ人ムスリムが多数、居住していました。 これは、シチリア島を一時期ムスリムが征服していたゆえです。 しかし13世紀にはいると、国王フリードリヒ2世はムスリム共同体を強制移住させ、これを契機としてムスリムは消滅してしまいます。 シチリア王国での「共存」は、パワーバランスが崩れるとあっというまに崩壊するという歴史をたどったのです。 これが、イスラム世界との大きな違いです。 すなわち、イスラム世界では、非ムスリムの宗教共同体の存在が神の言葉によって保証されているので、共同体の消滅に至るような決定的な弾圧が起きにくいのです。 こうした施策は、マイノリティに一定の権利を保障する点で、現代のアファーマティヴ・アクションと似ています。 ただし、現代のアファーマティヴ・アクションは、マイノリティに、マジョリティ以上のポジティヴな評価を与えるわけですから、この点は逆になります。

次の

オスマン帝国の衰退

オスマン 帝国 歴史

栄華を誇ったオスマン帝国最盛期の後宮。 1520年、セリム1世が逝去。 皇太子であったスレイマン1世が第10代皇帝に即位し、以降46年に渡る華麗なるオスマン帝国統治の歴史が始まる。 スレイマンの即位と同じ頃、ルテニア(現在のウクライナ)では、タタール人による襲撃が続いていた。 ある小さな町の司祭の美しい娘アレクサンドラ(後のヒュッレム)は、目の前で家族、そして恋人を皆殺しにされる悲劇に襲われる。 その美貌で命拾いしたアレクサンドラは捕虜となり、幼なじみのマリアとともにオスマン帝国のハレムに献上されるため、奴隷船に乗せられた。 ハレムに入ったアレクサンドラは、絶望のあまり死ぬことさえも恐れず、全てに反抗的な態度でいたが、ある夜、夢枕に立った両親の言葉に後押しされ、このハレムで生き抜くことを決意するのだった。 生き抜くためにはトプカプ宮殿の後宮でスレイマンの側女に選ばれなければならないと考えたアレクサンドラは、ある夜の宴で妖艶な舞を披露しスレイマンの心を掴む。 翌日の夜、スレイマンはアレクサンドラを夜伽に召すが、寝所に現れたのは皇妃マヒデブランだった。 母后アイシェは、「皆、地位を狙う。 賢くなりなさい」と忠告するが、マヒデブランは嫉妬に狂っていく…。 さらに、皇子を身ごもり、皇妃となることを望むヒュッレムは、スレイマンとの結びつきを強くするためイスラム教に改宗、あらゆる知恵を絞り着実にハレムの中でのし上がっていく。 しかし、そこには数知れない陰謀と嫉妬が待ちうけ、女同士の熾烈な権力争いに身を投じていくことになる…。

次の

オスマン帝国(オスマントルコ)の歴史を知ろう!人類史上最大最高と言っても良い現在のトルコに繋がった帝国

オスマン 帝国 歴史

オスマン帝国: 皇帝たちの夜明け アジアからヨーロッパに攻撃を仕掛け、ヨーロッパを震撼させた国は歴史上たった二つ、その国とは…モンゴル帝国とオスマン帝国。 オスマン帝国は、テュルク系(後のトルコ人)のオスマン家出身の君主(皇帝)を戴く多民族帝国。 15世紀には東ローマ帝国を滅ぼしてその首都であったコンスタンティノープル(後のイスタンブール)を征服、この都市を自らの首都とした。 17世紀の最大版図は中東からアフリカ・欧州に著しく拡大し、東西はアゼルバイジャンからモロッコに至り、南北はイエメンからウクライナ、ハンガリーに至る広大な領域に及んだ。 史上最も強大な帝国のひとつとして知られている。 その成功の秘密は、領土の大きさと中央集権的な機構にあった。 世界で最も利益の上がる交易路を支配することで莫大な富を得る一方で、完璧に組織化された軍制を敷いた。 しかし、アナトリアに姿を現してから600年後、オスマン帝国は第一次世界大戦の中で崩壊した。 参考 fa-arrow-circle-right オスマン帝国 皇帝たちの夜明け メフメト2世は、オスマン帝国の第7代スルタン(皇帝、在位: 1444年 — 1446年、1451年2月18日 — 1481年5月3日)。 コンスタンティノープル(イスタンブール)を攻略してビザンツ帝国(東ローマ帝国)を滅ぼし、オスマン帝国の版図を大幅に広げる。 30年以上に渡る征服事業から、「征服者(ファーティフ Fatih)」と呼ばれた。 メフメトは30年にわたる2度目の治世において、コンスタンティノープルやバルカン半島の諸国、アナトリアのトルコ人の諸勢力を征服し、オスマン朝の勢力を急速に拡大させた。 これによりオスマン朝は帝国と呼びうる内実を獲得することになる。 コンスタンティノープル征服後、メフメトは「征服の父」「2つの海と2つの大陸の支配者」という称号を用いた。 オスマンの勢力拡大はヨーロッパ諸国にとっての脅威であり、メフメトは「破壊者」「キリスト教最大の敵」「血にまみれた君主」と恐れられた。 参考 fa-arrow-circle-right.

次の