スペイン 風邪。 ペスト、コレラ、スペイン風邪・・・人類はどう感染症の流行と向き合ってきたか

歴史から読み解く「コロナショック」経済の行方

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池上彰のニュース検定 ニュース検定の今日の問題と答えです。 池上彰さんの解説も追記します。 ニュース検定の問題 1918年スペイン風邪で死んだ日本の劇作家は? 青 島村抱月 赤 坪内逍遥 緑 夏目漱石 ニュース検定の答え 答えは 青 島村抱月 ヒント:1918年(大正7年)、抱月は全世界で大流行していたスペイン風邪に罹患し、さらに急性肺炎を併発してしまい、東京市牛込区横寺町(現・東京都新宿区横寺町)の芸術倶楽部の居室で急死した。 池上彰の解説 ここから池上彰さんの解説です。 今日の「ニュース検定」のキーワード キーワードは 大女優と劇作家 スペイン風邪と有名女優のカップル スペイン風邪では日本国内でも多くの死者を出しました。 その中でも注目されたのはこの二人です。 劇作家の島村抱月と、女優の松井須磨子です。 ただ、同時にスペイン風邪で亡くなったわけではありません。 亡くなったのは島村抱月だけでした。 人々の関心を集めたのは、抱月の2ヶ月後に松井須磨子が後追い自殺をしたからです。 二人は当時、最も有名な不倫カップルだったのです。 松井須磨子と同棲した島村抱月 島村抱月は著名な劇作家でした。 妻子があったにも関わらず、自らが目をかけた女優松井須磨子と同棲していました。 そして須磨子は、抱月が手掛けた舞台で人気が急上昇します。 日本で初めてのヒット曲「カチューシャの唄」 とりわけトルストイの小説をもとに抱月が舞台化した「復活」で、松井須磨子が歌う「カチューシャの唄」が、人々の心をとらえました。 レコードが発売され累計で2万枚が売れたのです。 日本で初めてのヒット曲と言われています。 スペイン風邪で悲劇が その島村抱月と松井須磨子との運命を狂わせたのが、スペイン風邪です。 実は最初にかかったのは須磨子の方です。 1918年大正7年10月末のことでした。 抱月は熱にうなされる須磨子を看病したことで、スペイン風邪に感染したのです。 当時、抱月は47歳松井須磨子は32歳でした。 島村抱月は数日後に亡くなる 須磨子はその後回復しますが、抱月はわずか数日で亡くなりました。 スペイン風邪は、発症してから数日で呼吸困難になり、死亡するケースが多かったのです。 感染力が強く看病する家族や医師や看護婦が次々に感染しました。 こうした中有名カップルの悲劇が国民にスペイン風邪の恐ろしさを改めて知らされたのです。 ニュース検定前回の問題 今日のことば検定とお天気検定の問題.

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スペイン風邪の名前の由来とその対策とは?

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提供 辞世の句まで詠み、死をも覚悟した芥川龍之介 (c)朝日新聞社 全国で緊急事態宣言が解除された。 とはいえ、5月30日段階で新型コロナウイルスによる死者数は約900人を数え、第2波への警戒は怠れない。 約100年前にパンデミックを起こしたスペイン風邪では、都合3回の感染拡大があり、国内でおよそ40万人が命を落とした。 スペイン風邪と闘った文豪たちの姿から、我々は今、何を学べるか? 「僕は今スペイン風邪で寝ています。 うつるといけないから来ちゃだめです。 熱があって咳が出てはなはだ苦しい」 1918(大正7)年11月2日、芥川龍之介は友人への手紙にこう記し、末尾に「胸中の凩(こがらし)咳となりにけり」という俳句を添えた。 呼吸のたびにヒューヒューと音がする自身の病状をこがらしに喩えた一句である。 その翌日には作家仲間への手紙で「スペイン風邪で寝ています。 熱が高くってはなはだ弱った。 病中髣髴として夢あり。 退屈だから句にしてお目にかけます」と書き、末尾に、「凩や大葬ひの町を練る」と、死者の増加を伝える句を記し、「まだ全快に至らずこれも寝ていて書くのです。 頓首」と続けた。 芥川の病状はかなり重かったようで、「見かへるや麓の村は菊日和」という辞世の句まで書いている。 回復後の11月24日に、漱石の長女と結婚した作家・松岡譲の肺炎入院見舞いとして「僕もインフルエンザのぶり返しでひどく衰弱していた。 辞世の句も作った」「御互に今度はと命拾いをしたほうだろうと思う」と書いた手紙を送っている。 新型コロナウイルス同様、スペイン風邪にも「再感染」があったようだ。 回復したはずの芥川が再び感染したのは翌年2月。 田端の実家に戻り、療養した。 半月ほど実家で過ごし、ようやく床を上げ、鎌倉の家に帰宅したのが3月3日。 12日に友人に書いた手紙の末文で「目下インフルエンザの予後ではなはだ心細い生き方をしています」と記し、「思へ君庵の梅花を病む我を」との句を書いた。 芥川が2度目の感染から回復した直後に、実父・新原敏三がスペイン風邪で入院してしまった。 芥川は病院に寝泊まりして看病したが、実父は3日後に死去。 亡くなる前の晩には、芥川の手を取り、自分が所帯を持ったころの話を語り出し、涙を流したという。 世界で5億人の感染者を生み出したスペイン風邪では、数千万人が亡くなったとされる。 日本で最初の流行があったのは大正7年8月。 3回の感染拡大の波を経て、約40万人が亡くなった。 芥川だけでなく、多くの文豪が感染した。 芥川とともに東大同人誌「新思潮」のメンバーだった久米正雄も、スペイン風邪で生死の境をさまよった一人。 大正8年2月1日に自作の戯曲が上演されていた大阪から帰京すると、翌日には風邪を自覚。 5日に予定されていた知人の結婚式を欠席すると、診察した友人の医師は、自らの手には負えないとノーベル医学賞候補にもなった東大病院の名医・呉建に助けを請うたほどだった。 そのおかげもあって回復した。 もう一人の「新思潮」メンバーだった菊池寛もこの時期、危うくスペイン風邪になりかけた。 菊池は2度目のスペイン風邪から回復した芥川と大正8年5月4日、長崎旅行に出発した。 車中で菊池は頭痛を感じて岡山駅で途中下車。 もしものときは故郷の高松に渡り、養生するつもりだった。 その気持ちを察したのか、芥川は下車する菊池に「君は讃岐で生れたのだから、讃岐へ死にに帰るというわけになるのじゃないかなあ」と言ったという。 芥川に不吉なことを言われた菊池は駅前の安宿に宿泊。 菊池はのちにこの旅について、「流行性感冒以来、病気に就いては極端に憶病になっている。 このまま、長崎へ行って病みついたりしては事だと思ったので、芥川に一足先へ行って貰って、自分は岡山で一旦下車することにした」(「長崎への旅」)と書いている。 菊池がスペイン風邪を疑ったのは、旅の前日に病後の久米正雄に会ったことも関係していた可能性がある。 それでも旅を続けるのが菊池の菊池たるゆえんである。 頭痛を抱えたまま、翌日からは尾道、下関などを経由して5月7日、芥川から2日遅れで長崎に着いた。 恐れていた感冒ではなかったようだ。 長崎滞在中の芥川は、歌人の斎藤茂吉と面会している。 茂吉は大正6年末から長崎医学専門学校教授に任じられ、併せて県立長崎病院精神科部長として赴任していた。 まるでスペイン風邪が芥川の後を追いかけるように、茂吉のいる長崎でもこの年の暮れ、スペイン風邪が猛威を振るった。 医師として、歌人として、茂吉は長崎を襲ったスペイン風邪をこう詠んでいる。 「寒き雨 まれまれに降りはやりかぜ 衰へぬ長崎の年暮れむとす」 その茂吉が感染したのは大正9年1月だった。 6日に東京から訪れた義弟とホテルで食事をして帰宅した後、急激に発熱して寝込んでしまった。 ウイルスは茂吉の肺を襲い、肺炎を併発。 一時は生死の境をさまよい、命も危ぶまれた。 妻と子にも感染した。 茂吉が床上げしたのは2月15日、勤務を再開したのはその10日後だった。 茂吉の勤務した長崎医学専門学校では、同僚の教授と校長がスペイン風邪で命を落としていた。 今でいう「クラスター」だろう。 このとき茂吉が詠んだ歌が、「はやりかぜ 一年(ひととせ)おそれ過ぎ来しが 吾は臥(こや)りて 現(うつつ)ともなし」だ。 茂吉の予後は悪く、6月には喀血し、しばらく温泉を転々として療養する一年となった。 死を招きうるウイルスを警戒したのは昔も今も一緒だ。 多くの文豪は過剰なまでにスペイン風邪を恐れた。 川端康成はこの時期、感染が広がりつつある東京を避け、伊豆を訪れている。 一高生だった大正7年秋、19歳の川端は、スペイン風邪を警戒して伊豆・修善寺から湯ケ島を旅した。 この旅で出会った旅芸人一座との思い出を描いたのが後の名作「伊豆の踊子」である。 当時、千葉県・我孫子に住んでいた志賀直哉は大正8年発表の短編「流行感冒」で、徹底したスペイン風邪対策をとった様子を「事実をありのままに」(あとがき)描いている。 「流行感冒」の主人公は、感冒を恐れ、医師が勧めるのに娘を運動会に行かせない、女中を街に出すときにも店での無駄話や芝居見物を禁じる。 近くの工場で300人規模のクラスターが発生するなか、女中は禁を破って芝居見物に出かけ……という物語。 実の娘を病気で失っていた志賀は「子供のために病的に病気を恐れていた」と書いているとおり、今で言う「3密」を排した。 志賀の「3密回避策」は新型ウイルス感染拡大中の現在にも通用する感染拡大防止策だが、歌人の与謝野晶子の主張も今に通じるものを感じる。 大正7年、与謝野の10人の子の1人が小学校でスペイン風邪に感染したのをきっかけに、与謝野家は家族が次々と感染してしまったのだ。 与謝野はこの体験を「感冒の床から」と題して「横浜貿易新報」(現・神奈川新聞)に論評記事を書いた。 「政府はなぜいち早くこの危険を防止するために、大呉服店、学校、興行物、大工場、大展覧会等、多くの人間の密集する場所の一時的休業を命じなかったのでしょうか」 今も昔も国は十分な対策を打てなかったようだ。 新型コロナウイルスで大切な人を失わないために、先人の失敗から学ぶことはたしかにある。 スペイン風邪は収束まで2年以上かかり、第2波では高い死亡率となった。 新型コロナウイルスの流行が長期化する恐れは多くの専門家が指摘している。 油断は禁物だ。

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スペイン風邪の名前の由来とその対策とは?

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1918~19に大した。 20世紀最大の規模で,死亡者数では人類史における最大級の世界的流行()に数えられる。 原因ウイルスは,インフルエンザウイルス A型(H1N1亜型)であったことが判明している。 流行は 3に分かれて起こった。 第1波は第1次世界大戦中の 1918年3月初めにアメリカ合衆国カンザス州のファンストン基地から始まったとみられる。 4月にこの基地からヨーロッパ西部に到着したアメリカ軍兵士らがウイルスを運んだと考えられており,7月にはポーランドにまで広がった。 第1波のインフルエンザは比較的軽症であった。 しかし夏の間に致死性のより高いインフルエンザの存在が確認され,1918年8月にをふるい始めた。 この第2波では者は肺炎が急速に進行し,多くは発症から 2日後には死亡した。 第3波は続く冬に起こり,春には終結した。 第2波と第3波による死亡者の約半数は,インフルエンザで死亡にまでいたることはまれな 20~40代であった。 流行は世界中で起こり,まず港町で発生し,主要な運輸機関の経路に沿って町から町へと拡大した。 インドでは少なくとも 1250万人が死亡したとみられ,アメリカでは約 55万人が,日本では 39万人が死亡した。 全世界で 2500万人が亡くなり,その多くは第2波と第3波で命を奪われた。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について の解説.

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