パウリ の 排他 原理。 パウリの排他原理とは

パウリの原理(パウリのげんり)とは

パウリ の 排他 原理

ハンブルク大学講師時代のパウリ 生誕 Wolfgang Ernst Pauli 1900-04-25 死没 1958-12-15 (58歳) 研究機関 出身校 論文 About the Hydrogen Molecular Ion Model 1921 博士課程 指導教員 他の指導教員 博士課程 指導学生 主な受賞歴 1945 受賞者 受賞年: 受賞部門: 受賞理由:パウリの原理とも呼ばれる排他原理の発見 ヴォルフガング・エルンスト・パウリ( Wolfgang Ernst Pauli, - )は生まれのの物理学者。 の理論や、現代化学の基礎となっているの発見などの業績で知られる。 アインシュタインの推薦により、に「1925年に行われた排他律、またはパウリの原理と呼ばれる新たな自然法則の発見を通じた重要な貢献」に対してを受賞した。 生涯 [ ] パウリはでヴォルフガング・ヨセフ・パウリとベルタ・カミラ・シュッツの間に生まれた。 エルンストという彼のミドルネームは名付け親の物理学者に敬意を表して付けられた。 父方の祖父はユダヤ人で、名の知れた出版社の経営者だった。 パウリはウィーンのドブリンガー・に入学し、に優秀な成績で卒業した。 卒業わずか2ヵ月後に18歳の彼は、のに関する人生最初の論文を発表した。 彼はに入学し、の下で研究を行なった。 7月に彼はのに関する学位論文で博士号を取得した。 ゾンマーフェルトはパウリに、ドイツ語の百科事典 Encyklopaedie der mathematischen Wissenschaften(『数理科学百科事典』)の相対性理論の記事を執筆するよう依頼した。 パウリは博士号取得の2ヵ月後に、237ページにも及ぶ記事を完成させた。 この記事はアインシュタインに称賛されてとして出版され、今日においても、この分野の標準的参考書となっている。 パウリはでの助手として1年間過ごし、翌年にはの理論物理学研究所(後の)に滞在した。 その後からまで、彼はの講師を務めた。 この時期のパウリの研究はの現代的理論の構築に寄与した。 特に彼は、排他律や非相対論的スピン理論の定式化を行なった。 5月、パウリはを脱退し、12月にケーテ・マルガレーテ・デプナーと結婚した。 この結婚は長く続かず、に離婚している。 離婚後間もない初め、の仮説を提唱する直前に、パウリは深刻な精神的不調に悩まされた。 彼は精神科医・心理学者で、パウリと同じく近郊に住んでいたの診察を受けた。 パウリはすぐに自分の「夢」の解釈を始めるようになり、難解な心理学者ユングの最高の生徒となった。 間もなく彼は、ユング理論の認識論について科学的な批評を行なうようになり、ユングの思想、特にの概念についての説明を与えた。 これらについて二人が行なった議論はパウリ=ユング書簡として記録されており、 Atom and Archetype(『原子と元型』)というタイトルで出版されている。 1928年、パウリはスイスのの理論物理学の教授に任命された。 1931年にはの客員教授として渡米し、にはに滞在した。 に彼はフランカ・バートラムと再婚した。 この結婚生活は生涯続いたが、彼らの間に子供は生まれなかった。 のによるによってパウリはドイツ市民となったが、このことは翌の勃発とともに、であった彼の身を危うくすることとなった。 パウリはにアメリカへ移住し、の理論物理学の教授となった。 戦争が終わったに彼はアメリカ合衆国にはせず、チューリッヒに戻り、その後の生涯の大半をここで過ごした。 、を発病した。 パウリの最後の助手を務めたチャールズ・エンツがチューリッヒのロートクロイツ病院に入院していたパウリを見舞った時、パウリは彼に「部屋の番号を見たかね?」と尋ねた。 彼の病室の番号は 137 だった。 1958年、パウリはこの病室で没した。 享年58歳。 業績 [ ] パウリは物理学者として、特に量子力学の分野で数多くの重要な業績を残した。 彼は論文を執筆するよりも同僚(特に親しかったやなど)との間で長い手紙をやり取りするのを好んだ。 彼のアイデアや成果の多くは、論文としては発表されず書簡にのみ残され、手紙を受け取った人物によってコピーされたり回覧されたりすることが多かった。 パウリは自分の研究成果が彼の名前で紹介されないことになっても気にしなかった。 以下に挙げる成果はパウリの業績として名前が残されているもののうち最も重要な仕事である。 、パウリは分子線の観測結果と当時発展しつつあった量子力学との間にあった矛盾を解決するために、新たな量子のモデルを提案した。 おそらく彼の仕事の中で最も重要なである。 この原理は同じには2個以上のが存在できないというものであった。 その後、のアイデアがによって考案され、翌年にとによってパウリの提唱したこの自由度が電子のスピンに相当することが明らかとなった。 、ハイゼンベルクが現代的な量子力学の理論であるを発表した後でパウリはこの理論を用いて原子のスペクトルを理論的に導いた。 この成果はハイゼンベルクの理論の信頼性を保証した点で重要な結果だった。 、パウリはスピンのとしてを導入し、これによってスピンの非相対論的理論に解を与えた。 この成果はに影響を与え、後にディラックは相対論的電子を記述するを発見した。 、パウリはので中性粒子が存在することを予言した。 にが、パウリの提唱した中性粒子に と命名し、自分の放射性壊変の理論に組み込んだ。 ニュートリノはになって初めて実験的に観測された。 、パウリはにとって重要な成果となるの証明を行ない、半整数のスピンを持つ粒子はであり、整数スピンを持つ粒子はであることを示した。 1953年外国人会員選出。 性格・人物評 [ ] (右)と パウリは実験が下手であり、よく実験装置を壊していた。 その噂が広がると、パウリが実験装置の近くにいるだけで装置が壊れるという伝説が広がり、彼のこの奇妙な能力に対してという名称が付けられていた。 パウリ自身もこの評判を知っており、パウリ効果が現れるたびに喜んだ。 物理学に関してはパウリは完全主義者として有名だった。 この性格は彼自身の研究だけでなく、同僚の仕事に対しても発揮された。 結果的にパウリは「物理学の良心」として物理学のコミュニティの中に知られるようになり、彼の批評を受けた同僚は彼の疑問に答える義務を負うこととなった。 パウリは自分が欠点を見つけた理論はどんなものでも ganz falsch(完全な間違い)とレッテルを貼って酷評することもあった。 かつて自分が誤りを見つけたある論文に対して彼が「"Das ist nicht nur nicht richtig, es ist nicht einmal falsch! "[この論文は、間違ってすらいない(正しいとか間違えているとかという次元にさえ至っていない)]」と述べた言葉は有名である。 また、逆に自分の仕事をパウリに認めてもらうことを彼らは「パウリのご裁可 sanction を得る」と言っていたという。 物理学界でのパウリに関する有名なジョークとして次のようなものがある。 「パウリは死後、天国で神への拝謁を許される機会を得た。 036... という値をとるのかと尋ねた。 神はうなずいて黒板に向かい、すさまじい勢いで数式を書き殴り始めた。 パウリは非常に満足げに神の様子を眺めていたが、しばらくして突然頭を激しく振り始め言った「全然まちがっている」…。 」 神秘主義と宗教観 [ ] パウリの論文「ケプラーの科学的理論構築に与えた元型的イデアの影響」にて、彼のや的な世界観をと共に記しており、それは彼の友人であり物理学者のの著書『限界を超えて』の第3章に要約されている。 ハイゼンベルクによれば、体験したデータから自然法則が引き出せるという純粋なではなく、感覚的知覚と概念、もしくは「感覚的知覚とイデア」を結びつけるものを探し、それをユングのの論の中に見出していて、元型のようにイメージが先行しているという見解の源流は哲学者の思想である。 西洋思想では、19世紀の科学が客観的な物質的世界を生み出したが、東西を問わず古くから、多様性を超越して一体性を体験しようとするがあり、この二極が相補的であることを認める必要があるとした。 受賞歴 [ ]• () 脚注 [ ]• アーサー・I・ミラー著、阪本芳久訳「137- 物理学者パウリの錬金術・数秘術・ユング心理学をめぐる生涯」(草思社、2010年)• 参考文献 [ ]• Enz, Charles, P. 2002 : No Time to be Brief, A scientific biography of Wolfgang Pauli, Oxford Univ. Press. Enz, Charles, P. 1995 : "Rationales und Irrationales im Leben Wolfgang Paulis", in: Atmanspacher, H. et al 1995 : Der Pauli-Jung-Dialog, Springer, Berlin. Pauli, W. , Jung, C. 1955 : The Interpretation of Nature and the Psyche, Random House. Pauli, W. , Jung, C. Meier, Princeton, Univ. Press, Princeton, New Jersey. Lindorff, David 1994 : Pauli and Jung: The Meeting of Two Great Minds, Quest Books. Pais, Abraham 2000 : "The Genius of Science", Oxford Press, Oxford. Miller, Arthur, I. 2010 : 137: Jung, Pauli, and the Pursuit of a Scientific Obsession, W. 関連項目 [ ]• 外部リンク [ ] 英語版ウィキクォートに本記事に関連した引用句集があります。

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パウリの排他原理

パウリ の 排他 原理

歴史で学ぶ量子力学【4】(近日公開) 20世紀のはじめ、第一次大戦が終りを迎えた頃、物理学は光の「波動説」と「粒子説」の2つの間で揺れていました。 光が 矛盾するどちらの性質でも成り立ってしまうことに皆が困惑していたのです。 1922年にアーサー・コンプトンによるコンプトン効果の発見によって、アインシュタインの光量子仮説は決定的なものになっていました。 コンプトン効果とは、電子にX線をぶつけたとき、弾かれて散乱したX線の波長が伸びるという現象です。 波長が伸びるということは、X線がエネルギーを失っていることを意味しています。 衝突でエネルギーを失うという現象を古典物理学で説明するなら、ビリヤードのようにぶつかった玉が運動量の一部を相手に奪われた、ということになります。 波は運動量を持たないため、古典物理学の解釈ではX線を波と捉えたまま、散乱で波長を伸ばす理由が説明できませんでした。 当時の物理学がコンプトン効果を理解するためには、X線が粒子であると解釈しなければならなかったのです。 こうして、 この時代の物理学者たちは、月曜と水曜と金曜は光の波動論を教え、火曜と木曜と土曜は光の粒子論を教えなければならない、と冗談交じりに愚痴るような状況になりました。 では、ここから物理学は一体どこへ向かっていったのでしょうか? 物質の全ては波 粒子と波動、どちらも成り立つこの問題に最初の光を当てたのが、物理学者としては異例の系譜を持つフランス公爵家出身の貴公子でした。 「アインシュタインの発見は、あらゆる物質粒子、特に電子に拡張されなければならない」ルイ・ド・ブロイの肖像。 ド・ブロイの発想は非常に画期的でした。 彼は光が粒子なのか、波なのかという論争を物理学者たちが繰り広げる中で、次のようなことを考えたのです。 「 波であるはずの光が粒子のように振る舞うのだとしたら、原子などの粒子は波のように振る舞うのではないだろうか?」 彼はこの考えに基づき、当時太陽の周りを回る惑星のように原子核の周りを軌道を描いて回る粒子だ、と考えられていた原子内の 電子を、定在波であると仮定した論文を書いたのです。 彼のこの仮説には、ボーアの原子モデルにとっても重要な意味を持ちました。 新しい原子モデルを考え出した当初、ボーアは 定常的な軌道を回る電子はエネルギー放射を行わないため、原子核に落ちることが無いと仮定しました。 しかし、彼は 「なぜ電子がエネルギー放射をしないのか?」という疑問に答えることはできなかったのです。 もしド・ブロイの主張する通り、電子が粒子でなく波なのだとしたら、それは加速することがありません。 加速しなければ電子はエネルギー放射をすることもなく、したがって原子核に落下することもないのです。 しかも、ド・ブロイの原子核を回る電子の定在波は、ぐるりと円を描いて繋がっているため波形の崩れる位置でつなげることができません。 軌道の長さは、必ず電子の波長の整数倍でなければならず、それはボーアの主張する電子の軌道とピタリと一致したのです。 つまりボーアの主張する定常的な軌道がなぜ存在するかも、ド・ブロイは同時に説明できたのです。 電子を定在波としたド・ブロイの原子モデル。 なにせ、 この論文はド・ブロイが学位取得のために書いた博士論文だったのです。 けれど、この論文を手放しで評価した人物が現れました。 それが、光電効果によるノーベル賞受賞と、一般相対性理論の発表をほぼ同時期に果たして、一躍時の人となっていたアインシュタインでした。 当時の物理学会にとってアインシュタインの太鼓判は、ド・ブロイの考えを受け入れるのに十分な理由でした。 しかし、「粒子だと思っていた電子が波である」などという主張はどうやって証明すればいいのでしょう? ド・ブロイはそれについて、電子が波の性質を持つならば、電子も回析を起こすはずだという予想を述べました。 このド・ブロイの予想は、後に複数の物理学者たちの実験によって証明されます。 その中の一人が、ジョージ・トムソンでした。 この功績によりジョージ・トムソンはノーベル物理学賞を受賞します。 ちなみに、彼の父、J・J・トムソンは電子が粒子であることを発見し、ノーベル物理学賞を受賞した科学者です。 トムソン親子は驚いたことに、それぞれ「電子は粒子である」「電子は波である」と証明して、親子二代でノーベル賞を受賞したのです。 「あーもうめちゃくちゃだよ!」と思った物理学者もいたことでしょう。 ともあれ、こうして、光も電子も「波でありながら粒子の性質を示す」という二重性の考え方が物理学の世界に受け入れられることになったのです。 パウリの排他原理 古典物理学では光も電子も手に負えないということが徐々に明らかになり、物理の世界は新しい理論を求めるようになっていました。 こうした中登場したのが、 量子力学の歴史を語る上で欠かすことのできない重要人物の一人、です。 彼はかなり早熟の天才でした。 世の中には「授業中に机の下に隠した漫画を読んでいた」なんて不届きな人もいるかも知れませんが、パウリの場合、 退屈な授業中に隠れて読んでいたのは、アインシュタインの相対性理論の論文だったといいます。 「ともかく物理学は難しすぎて、自分が物理学など何も知らない喜劇役者だったらよかったのにと思う」ヴォルフガング・パウリの肖像。 ゾンマーフェルトは数理科学百科事典という物理をまとめた本を作っていて、相対性理論の解説をアインシュタインに依頼しましたが断られたため、まだ19歳だったパウリにその編集を任せました。 パウリの書いた相対性理論の解説は完璧な出来栄えで、ゾンマーフェルトが「自分が直すところは何もない」と驚くほどでした。 それは後日アインシュタイン本人も読むことになり、その深い洞察に称賛を送ったといいます。 そんなパウリでしたが、根っからの理論物理学者で、実験は大の苦手。 実験器具もよく壊していたといいます。 そのうち近づくだけで器具が壊れると噂され、科学と無縁のこの現象は冗談めかしてパウリ効果などと呼ばれました。 パウリはその後いくつかの研究室を渡り歩き、 ボーアの講演に感銘を受けて、コペンハーゲンの研究所へ行くことになります。 パウリの研究所滞在は1年という期限付きのものでしたが、ボーアとの付き合いはこの後生涯に渡って続きます。 一方この頃、 ボーアは電子殻モデルというものを発表します。 授業中、机の下に隠して相対性理論を読んだりしなかった人なら、化学の授業で 原子にはK殻、L殻、M殻などの殻があって、それぞれに入れる電子の数が2個、8個、18個と決まっているという話を聞いた覚えがあると思います。 電子殻モデル 左 と各元素の電子の配置 右。 電子殻はそれぞれ決められた上限の電子数があり、いっぱいになると殻が閉じて化学的に極めて安定した状態になります。 けれどボーアは相変わらず、経験的なデータからインスピレーションに頼ってこれを導いていて、 なぜこのように電子殻の電子数が決定されるのか説明することはできませんでした。 恩師のラザフォードも優れたアイデアであることは認めつつも、 「なぜ君がこの結論に至ったのかがまるで理解できない」と困惑したといいます。 しかし、ボーアはこのモデルをもとに 当時未発見だった、元素番号72番の性質について予想を述べ、それは後に発見されたハフニウムと一致します。 このためボーアの電子殻モデルは無視できない理論となりました。 このモデルに論理的な基礎を与えるヒントは、ラザフォードの研究室にいた大学院生エドマンド・ストーナーが発見します。 ボーア・ゾンマーフェルトの原子モデルでは、電子のエネルギー準位を決定するために、軌道の大きさ n 、軌道の形 k 、軌道の向き m という3つのパラメータ(量子数)を使っていました。 ストーナーはこの3つの量子数を使って計算すると、それぞれの電子殻で電子が取ることのできるエネルギー状態が、1個、4個、9個に決定できるということを発見するのです。 そして 電子殻に入る電子の数はこのエネルギー状態の2倍の数になっていることを示したのです。 パウリはこの研究をヒントにして、 現代まで彼の名を轟かせる「」を思いつきます。 電子は軌道上で、あるエネルギー状態を作りますが互いに同じエネルギー状態に入ることができません。 それが電子殻に入れる電子数に上限を生み出しているのです。 しかし電子殻の上限は、なぜ電子の取りうるエネルギー状態数の2倍になってしまうのでしょう? パウリはこの原因が、実は 電子のエネルギー状態を決定するパラメータを1つ見落としているためではないかと考えます。 彼はこのとき、磁場の影響で線スペクトルが分裂する「異常ゼーマン効果」の原因解明に苦しんでいましたが、この問題を解決する鍵がその 磁場に影響される新しいパラメータ(電子の自由度)だと気づくのです。 そして、パウリはそのパラメータに二価性という名を付けて導入します。 これは電子のエネルギー状態をさらに2つに分けることができました。 つまり、ストーナーの計算したエネルギー状態の2倍が電子数の上限という問題が解決され、電子殻に関する基礎理論が完成したのです。 電子スピンの登場 しかし、パウリが導入した二価性とは何を意味しているのでしょうか? この問題を解決させたのが、オランダ人のウーレンベックとハウトスミットという二人のポスドク研究者でした。 ウーレンベックが考えたのは電子のスピン(回転)でした。 磁場に影響する以上、それは電子の自転だろうと考えたのです。 そして、それは右回りか左回りの2種類だとしました。 電子スピンのイメージ。 これが回転した場合、電子の角速度は光速を上回ってしまい相対性理論に反することになります。 パウリもボーアもこのことが引っかかり、電子スピンには反対でしたが、当のアインシュタインが解決可能だという考えを示したことで溜飲を下げます。 このことは後に場の量子論という別の問題に繋がっていきますが、それはまた別のお話です。 なんにせよ、このときウーレンベックの考えた 電子が地球のように自転しているというのは誤ったイメージでした。 実際電子スピンは数式で表現されるイメージできない極めて量子的な状態を表しています。 もちろん、それではまったく理解できないので、今でも電子スピンは地球と同じような電子の自転というイメージで説明されています。 しかし電子スピンとは量子力学の話を聞いたときに、多くの人が「?」と躓く問題の1つでしょう。 こうした 古典物理学では表現することのできない概念 の登場は、古典物理学と量子論という新しい物理学を分けるきっかけになるのです。 現代でも多くの人たちが理解することに苦労する「電子スピン」の発見は、当時もちょっとしたいざこざを起こしました。 実はウーレンベックとハウトスミットの論文発表より、 1年ほど前にラルフ・クローニヒという研究者がすでに二人の論文と同じレベルまで理論を完成させていたのです。 ただ、古典物理学で考えた場合あまりに問題の多い電子スピンは、クローニヒ自身も確信が持てなかったため、パウリにどう思うかと相談をしました。 パウリは二価性について、古典物理学の概念では表現できない量子状態だと直感的には理解していたので、 クローニヒの電子の自転というアイデアを馬鹿にしてかなり冷淡な態度で否定しました。 そのためクローニヒは、 「あのパウリが違うというなら違うんだろう」と発表を諦めてしまうのです。 しかし、二人のオランダ人のスピン理論があっさり世間に受け入れられたのを目の当たりにして、クローニヒはかなりパウリを恨みます。 後に二人は和解しましたが、このことは世間の知る所となり、ノーベル賞委員会もこの騒動でスピンの発見について、ウーレンベックとハウトスミットの二人に賞を送ることを躊躇ってしまいました。 そのため、 電子スピンは量子論の歴史に残る大発見だったというのに、この件でノーベル賞を手にした人は誰もいないのです。 しかし、パウリは排他原理の発見でノーベル賞を受賞したため、彼はこのことを後々までかなり気に病んでいました。 パウリは晩年になっても「若い頃の自分は本当に馬鹿だった」と後悔していたといいます。 もう一人の天才 ハイゼンベルク パウリと同世代で、重要な物理学者がもう一人存在します。 それが ヴェルナー・ハイゼンベルクです。 ハイゼンベルクはもともとは数学者になろうとしていましたが、数学の教授とうまく行かず、父の紹介で出会った物理学者ゾンマーフェルトのもとで勉強することになります。 このときゾンマーフェルトの研究室には、パウリも在籍していました。 ここでの出会いをきっかけに二人は生涯を通じた物理学研究の盟友となります。 量子論の魅力をハイゼンベルクに教えたのもパウリでした。 「物質の基本的構成要素は、数学に還元できるのではないか?」ハイゼンベルクの肖像。 そして、博士号取得後は、ゾンマーフェルトの紹介で、マックス・ボルンの助手として彼の研究室に入りました。 マックス・ボルンは、数学者から論理物理学者へ転向した人物で、この時代、ボーア、ゾンマーフェルトと並んで量子力学の重要人物でした。 ボルンは、そのとき、次々に見つかる新事実に 物理学はもう1から全部作り直すしか無いだろうと考えていました。 そして、 その新理論を量子力学と呼んだのです。 ボルンの研究室に入ったハイゼンベルクは、原子核の周りを回る電子について考え始めます。 この当時、ハイゼンベルクはひどい花粉症を患っていて、ある時期は顔が腫れ上がって目も開けられないという状態になりました。 研究にも集中できないので、彼は仕方なく休暇をとって、花粉の届かない北海の小島ヘルゴラントへ旅行にいきます。 そして、やっと訪れた落ち着いた環境の中でゆっくりと思考を巡らせた彼は、量子力学を確立させる大発見をするのです。 もともと数学を志していたハイゼンベルクは、 観測できないものに視覚的イメージを持たせることはナンセンスだと考えていました。 原子核の周りを軌道を描いて回る電子というイメージも、ハイゼンベルクにとってはひどく馬鹿馬鹿しいものだったのです。 彼は、 物質の構成は観測できる値とその関係性だけで数学的に表現できるだろう、というちょっと小難しい考え方をしていました。 そこでハイゼンベルクは、電子がエネルギー準位間を瞬間的にジャンプするとき生じる線スペクトルの振動数など、観測で得られる値を全部書き出し、ボーアの対応原理によって 量子的な値を古典的な運動量と位置に変換しました。 そして、そこから 電子の振る舞いを計算しようとしたのですが、この複雑な式は 運動量pと位置qを入れ替えて掛け算できないという、特殊な性質を持ってしまいました。 これを非可換性といいますが、掛け算の順序で答えが異なる計算というのをハイゼンベルクはそれまで経験したことがありませんでした。 ハイゼンベルクは悩みましたが、この成果をボルンに見せます。 するとボルンは、「君がやっているのが行列計算だ」と言ったのです。 この当時、行列計算は数学では確立されていたものの、論理物理学者にはほとんど知られていませんでした。 数学に熟達したボルンは、この式を洗練させていき、まだ若手のヨルダンという研究者も引き込んで、ハイゼンベルクとともに三者論文と呼ばれることになる論文をかきあげました。 その論文は当時、 ボーアに見せても「行列だらけで何がなんだかワケがわかりません」と言われたくらいです。 しかし、パウリはここで語られる理論を使って、水素原子の線スペクトルを論理的に再現することに成功します。 こうしてハイゼンベルクの傑作と言える、 新しい物理学『行列力学』が誕生するのです。 けれど、何を計算しているのかイメージすることもできず、しかもなれない複雑で難解な行列計算を強いるこの行列力学は、同業の物理学者たちからはすこぶる評判が悪いものになりました。 物理学者たちは、行列力学が正しい結果を導けるため、 仕方なくイヤイヤ受け入れるという状況になってしまったのです。 しかしこの行列力学の、運動量と位置という2つの物理量の非可換性(入れ替えて計算できない)は、2つの確定値を同時に得られないという 不確定性原理の発見に結びついていくのです。

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歴史で学ぶ量子力学【2】「自分が物理学など何も知らない喜劇役者だったらよかったのに」

パウリ の 排他 原理

38-40 数日後、いつもゾンマーフェルトが講義をすることになっている大学の講義室に入った私は、三列目に、黒っぽい髪の、何を考えているのかつかみどころのない神秘的な顔をした一人の学生を見つけた。 彼は私がゾンマーフェルトとはじめて対面してのち、すでにゼミナール室で私の注意をひいた学生であった。 ゾンマーフェルトは彼に私を紹介したのち、研究室の前で別れるときに、「この学生は私の弟子の中で一番才能があると思っている。 あなたは彼から多くのことを学ぶことができるでしょう。 あなたが物理学で何かよく理解できないことがあるときには、遠慮なく彼にたずねなさい。 」とつけ加えた。 彼はヴォルフガング・パウリという名前であった。 そして彼はそれ以来、その生涯を通じてずっと、私の個人的な問題ならびに学問の上での試みに対して、ときには非常に鋭い批判者として、また常に変わらざる友として、この二つの役割をずっと果してくれたのであった。 その日も私は彼のそばに坐り、講義のあとで私の勉強のための助言を与えて欲しいと彼にたのんだ。 そこへゾンマーフェルトが入ってきて、すでに彼の講義の初めの一節を述べているあいだに、ヴォルフガングは私の耳にささやいた。 「彼は年とったハンガリア軽騎兵の連隊長のように見えないかい?」講義のあとでわれわれが理論物理学研究所のゼミナール室に帰ったときに、私はヴォルフガングに二つの質問をした。 とにかく理論の仕事がしたいとしたら、実験家の至芸をどの程度まで学ばねばならないかということと、現代物理学において相対性理論は原子論と比較してどのぐらい重要であるかについての彼の見解を私は知りたかった。 最初の質問に対してヴォルフガングの意見は 「僕はゾンマーフェルトがわれわれもいくらか実験を学ばねばならないということを強調しているのは知っているが、こと僕に関しては、それは全く不可能だ。 僕には実験装置とのおつきあいは一切だめなのだ。 すべての物理学が実験の結果に基づいているということは僕にもよくわかっている。 しかし結果が一度でてしまえば、今までの物理学はともかく、今日の物理学は、ほとんどの実験物理学者にとってむずかしすぎる。 このことは明らかに、われわれが現代の実験物理学の技術的な手段をつかって、日常生活の概念をもってしてはもはや記述できないような自然の領域にまで突入した、ということによるのだ。 したがってわれわれは、現代数学の根本的な勉強なしには全然手に負えないような抽象的で数学的な言葉に頼らざるを得ない。 そのため、残念ながらわれわれは間口を狭くし、専門化しなければならない。 僕にとっては、抽象的で数学的な言葉の方がわかりやすい。 だからそれでもって物理学の中で何かを達成することができるだろうと希望している。 その際に、実験的な面についてのある程度の知識はもちろん不可欠のものだ。 純粋数学者は、たとえ数学者自身としてはすぐれていても、物理学はさっばりわからないものだ。 」 このハイゼンベルクより一歳半ばかり年上のオーストリア生まれの口の悪い理論物理学者は、その名の示すように〝パウリの排他原理〟で有名であり、一九四六年ノーベル賞を受けている。 実験を苦手とした彼は、パウリが側へくると実験装置がうまく働かなくなるという伝説を創り出すことになった。 一九五八年に訳者がゲッチンゲンでハイゼンベルクの下にいたころ、若い仲間が、このいわゆる〝パウリ効果〟について面白おかしく説明してくれて、あるときゲッチンゲンで実験がうまく行かなくて、さんざんその原因をさがし求めてもわからなかったが、後になって、パウリがそのころ、汽車でゲッチンゲンの駅を通過したことがわかったと話してくれた。 〈パウリ効果〉のこと P. 58 奇妙な伝説がパウリにはあった。 いわゆるパウリ効果は悪魔の目の一種だった。 パウリが研究所の近くに現われると、装置の一部が落ちて粉みじんになったり、爆発したり、恐ろしいことが起こると言われていた。 こんな話が信じられていた。 ゲッチンゲンで働いていたジェームス・フランクがある朝、研究室に来て見ると、冷却水が故障してポンプが破裂し、床中にガラスが散乱して、全く恐ろしい乱雑な状態になっていた。 フランクがすぐに「パウリ、貴方は昨夜、どこにいたか」という電報を打ったところ、その返事は「チューリッヒからベルリンへ旅行中」だった。 (その汽車はゲッチンゲンを通る。 )もちろん私は、この話の一言一句まで、信じているわけではないが、これが伝説の典型的な例だった。 ある時、ハンブルグでパウリが天文台の見学に招待されたが、最初、パウリは「いや、望遠鏡は高価だから」と言って招待を辞退した。 天文学者たちは微笑み、パウリ効果は天文台の中では効力がないと保証した。 しかし、パウリがドームに入った時、鼓膜が破れるようなガラガラという大きな音がした。 一団が我に返ったときには、望遠鏡から大きな鋳鉄製の蓋が落ちてきて、コンクリートの床の上で粉々になっていた。 7-10 「パウリの裁定」で有名なドイツの理論物理学者のヴォルフガング・パウリは、大の実験嫌いで、 「パウリ先生が傍にいると実験がうまくいかない」 という噂があった。 ある日、パウリの所属する研究所で大事な実験がおこなわれていたが、あえなく失敗。 現場の物理学者たちは、 「おい、また、パウリ先生がうろついているんじゃないのか?」 と疑心暗鬼になったが、その日、パウリ先生は出張で研究所にはいなかった。 「ま、今回は、パウリ先生のせいじゃないということだ」 「でも、実験装置にも異常はないし、不思議だなぁ」 その日は、機械の調子が悪いということで、実験は中止にして、研究員たちは気分転換にビールを飲みにいくことにした。 翌日、パウリ先生が出張から帰ってきたので、実験物理学者のひとりが冗談交じりに、 「パウリ先生、昨日、また実験がうまくいかなかったんです。 でも、先生は研究所にいらっしゃらなかったので、先生の汚名は晴れました」 と話しかけた。 パウリ先生、しばらく頭をかしげていたが、おもむろに、 「それはいつごろのことかね?」 と訊ねた。 「は? ええと、午後の一時三十七分ころです」 すると、パウリは大声で笑い出した。 「いやっはっは。 出張先から別の場所へ汽車で移動しておってな。 一時三十七分には、ちょうど、この研究所の目と鼻の先を通過しておったわ」 というわけで、やはり、パウリ先生の神通力で実験が失敗したことがわかり、一同、あらためて、パウリ先生の影響力に畏れをなしたという。 ちなみに、「パウリの裁定」というのは、物理学の仮説に対してパウリが下した裁定のことで、パウリがオーケーを出さない仮説は、ことごとく葬り去られる運命にあったそうだ。 このパウリの裁定のおかげで運命が狂ってしまった人の話がある。 素粒子は「スピン」という一種の自転をしているのだが、これを最初に考えたのはクローニッヒという人だった。 ところが、スピン仮説の論文を『ネイチャー』に投稿したのは、ウーレンベックとカウシュミットという二人の若い物理学者であった。 いったいなぜか? この辺の事情は、トーマスという物理学者がカウシュミットにあてた手紙を読むと理解できる。 「君とウーレンベックは、パウリが耳にする前に、回転する電子の論文を発表して人々の話題になって、とても運がよかったと思う……一年以上も前にクローニッヒは電子が回転すると信じて、それなりの結果を出した。 ところが、最初に見せた相手がパウリだったのだ。 パウリが酷[ひど]く虚仮[こけ]にしたので、最初の相手が最後の相手となり、それ以来、誰もその説を耳にすることはなくなったのだ」 パウリの裁定のおかげで大論文を発表し損なったクローニッヒ。 怖いもの知らずの若者だったウーレンベックとカウシュミットが、かわりに大いに注目を集めた。 この話、朝永振一郎博士の名著『スピンはめぐる』に出てきて、思わず笑ってしまう。 122-127 電子を記述する量子力学の方程式は、シュレディンガー方程式ではなく、ディラック方程式と呼ばれるものだ。 電子は軽いので光速に近い速さで動くし、スピンと呼ばれる量子力学的な「自転」もしている。 そういった性質は、ディラックが発見した方程式でしか正確に記述することができない。 ところが、ディラック方程式には、ふつうの正のエネルギーの電子のほかに、「負のエネルギー」をもつ解が存在したのだ。 エネルギーというのは「正」だと思われる。 だから、この負のエネルギーは物理学者の頭痛の種になってしまった。 ところが、ディラックは、この問題を解決する、とても面白いアイディアを思いついた。 この本の冒頭に登場したパウリの有名な業績に「パウリの排他律」というのがある。 これは、今の状況にあてはめると、 「二つの電子は同じ状態を占めることはできない」 というもの。 なんだかわかりにくいが、これは席取りゲームのようなものなのだ。 席が一つしかないのなら、そこには一人しか座れない。 同じ状態をとるとは、その席に座る、というような意味。 そんなこと、当たり前じゃないか、といわれるかもしれないが、量子は幽霊のように重ね合わせることが可能な存在なので、同じ席に二人座る可能性もあるのだ。 電子の場合、同じ席には、同じエネルギーをもつ電子が二つまで座ることができる。 電子は自転をしているので、右回りが一人と左回りが一人である。 三人目がやってきたら、排他されてしまう。 だから、排他律というのだ。 ちなみに、光子の場合は、驚いたことに、二人どころか、何人でも座ることができる。 え? 無限に大勢でもいいのか? それが、いいのです。 おっと、脱線しかかった。 ディラックのアイディアというのは、つまるところ、世界は負のエネルギーの電子で満ち満ちているので、負の世界には、もはや、席が残っていない、ということ。 ところが、なんらかの原因で、その負のエネルギーの海に空席ができると、それは、負のエネルギーの電子がない状態なので、いいかえると、正のエネルギーの電子がある状態と解釈することができる。 ただし、この電子は、電荷が逆に見えるのだ。 くりかえします。 ディラックは、宇宙全体が負のエネルギーの電子の「海」で満たされていて、その海にある電子がなくなると、海の中に「孔」ができて、その孔が正のエネルギーの陽電子に見える、と考えたのだ。 何度くりかえされても、この説明、よくわからん。 だいたい、どうして、宇宙が負のエネルギーの電子の海になっているのか、理由がわからない。 そこで、ファインマンとシュトゥッケルバーグによる、もっと現代的な解釈をご紹介しよう。 ふたりは、次のように考えた。 実際には、負電荷をもった電子が動いているのに、われわれは、それをちがったふうに解釈して、正電荷が逆方向に動いているのだと言い張るのである。 結果は同じなのだから、それでいいのだ。 (僕は中学のころ、なんだかインチキだと思いましたけど。 無駄というか……。 電子の電荷をプラスと定義して、その流れる方向を電流の方向としたほうが素直で自然だと思った) さて、電子が動いているところを 8 ミリカメラで撮影しよう。 もとい、デジタルビデオカメラで撮影しよう。 実際にはできないけれど、一種の思考実験である。 撮影ができたら、それを逆回ししてみる。 すると、電子の動く方向が逆になる。 つまり、運動量 p の符号が変わる。 あたりまえの話だが、ビデオを逆さに回すというのは、時間を逆行させることにあたる。 時間が逆行すると、運動の方向が変わるのである。 この「電流」のところを「陽電子」と置き換えれば、なんとなく、納得がいくはずだ。 ただし、運動量だけでなく、エネルギーまで逆さまになるのは、まだ、納得できないでしょう。 ここで特殊相対性理論の考え方が必要になる。 117 粒子の集りに対して、常識的な統計の他に、例えば光子の集りの場合にはボースの統計という奇妙な統計法が必要となることは一九二四年以来知られていた。 一方原子内部の電子が排他律という奇妙な規則に従わねばならぬことが、一九二五年パウリによって注意された。 更に原子内の電子のみならず電子の集りの統計をとる時に、この排他律を考えねばならぬことがフェルミによって注意されたのは一九二六年三月のことである。 ハイゼンベルクは波動関数の対称性と、これらの統計ないし規則が密接な関係にあることを示し、粒子がこの非常識的な奇妙な性質を持つ所以を明かにした。 この波動関数と統計の関連は、ハイゼンベルクと独立に同じ年の八月にディラックによっても論ぜられた。 127-129 ディラックの天才的な考えによって発見されたディラック方程式は、スピンを説明するのみならず、それが全く相対論的であるという意味で後の素粒子論の発展の基礎となった。 しかし、負のエネルギーの困難を何とかしなければならない。 始めのうちは、ディラック方程式の形を変更することでこの困難を打開しようという試みがしきりに行われた。 しかし、これらの試みがうまくいかないでいるうちに、ディラックはまた意外な、しかしあとになるとコロンブスの卵のような、解決法に考えついた。 ディラックによると我々が真空と考えている空間は何も存在しない場所ではなく負エネルギーの状態のすべてが一つ一つ電子によって充たされている場所なのである。 真空がこういうものであるなら、真空中に存在する正エネルギーの電子は、パウリの原理によって決して負エネルギーの状態におち込むことはない。 ディラックは更に想像をたくましくした。 即ちもし負エネルギーのどこかに空孔が出来たとする。 そうすれば、この孔はあたかも正エネルギーと正電荷をもった粒子のような振舞をする。 これが即ち陽子だろうと。 この考えは一九三〇年に発表された。 この考えの前半分はよいが、あとの半分は、先ずワイルにつっこまれた。 即ちそれでは陽子と電子の質量が等しくなるというのである。 またオッペンハイマーは、負エネルギーに孔があり、その上に正エネルギーの電子があるときに、その電子は直ちに光を出して孔におちこむ、従ってもし陽子が孔であるなら、水素原子の電子は直ちに光を出してその近くにある陽子と心中してしまうのではないかというのである。 ところが後の節でのべるように、ワイルの言ったような粒子、即ち正電荷をもち電子と同じ質量の粒子即ち陽電子が一九三二年に宇宙線中に発見され、かつこの粒子がオッペンハイマーの言ったように電子と相あうと光を出して心中することがわかった。 これで負エネルギーの困難がディラックの考え通り、ただし陽子という代りに陽電子と言うことにして、打開されたことになる。 135-136 ~~。 すなわち、原子において個々の電子の状態が 4 個の量子数によって指定され(これはスピンの上下の状態をも勘定にいれたことになる)、その一つに同時に 2 個以上の電子が入ることはできないということである。 この規則は、もちろん励起状態をも支配し、したがってスペクトルの構造にも当然反映するわけであるが、実験と比較してそこにも反例がみられないことをパウリは確かめた。 そのころアメリカからやってきた若いオランダ人クローニッヒ R. de L. パウリは直ちにこれをくじき、この大それたアイディアを若芽のうちにつみとった。 ところが 1925 年 10 月になって、ライデンでやはり若いオランダ人のハウシュミット S. Goudsmit とウーレンベック G. Uhlenbeck が先のクローニッヒのと同じ考えを出したときは、日の目をみることになった。 量子論を有効にするために、量子的粒子を支配する 2 つの付加的な原理が必要であることが発見された。 1 パウリ排他原理 Pauli exclusion principle と 2 与えられた型のすべての粒子の同一性の原理 principle of identity である。 パウリ排他原理のために粒子は 2 つのカテゴリーに分けられる。 フェルミ粒子の場合、 2 つの粒子は同じ量子状態を占めることはできないが、ボース粒子に対してはそうではなく、同じ状態を占める粒子の個数に制限はない。 同一性については、これはすべての種類の粒子に適用される。 同一性はいくつかの驚くべき結果をもたらすので注意を要する概念である。 同一性は、そっくりの双子のように粒子が相互のコピーであることを単に意味するのではなく、銀行口座にある 2 つのドルが別々の独自性をもたないという意味で区別できないことを意味する。 電子波と光子波の間には、もちろん非常に重要な違いがある。 光子の波は電荷と強く相互作用するが電荷をもっていない。 電子は電荷をもっているので原子核の電荷の作用を受ける。 まだ他にも違いがある。 2 つの電子は全く同一の状態には存在しえないという パウリ排他原理によって、具体的に表される特性を電子波はもっているが、同じことは光子に対しては成り立たない。 多数の同一の光子はマクロな電磁場を形成することができる。 排他原理のために、 マクロな(すなわち古典的な)電子場 electron field は存在しえない。 しかし、この点は 2 種類の場を区別するだけで、場としての振る舞いには本質的に抵触しない。 異質性があったとしても類似性もあって、その類似性の 1 つは、すべての光子は相互に識別不能 indistinguishable という事実であり、同じことが電子についても成り立つ。 これはちょっと想像するよりもずっと深淵で油断のならない点であって、その結果は重要である。 それは 2 人のそっくりな双子の識別不能とは違う。 なぜなら、一方を他方と区別するために、双子には印をつけることができるが、量子的粒子にこれはできないからである。 それは、 1 と 3 を加えて得られる 4 と、 2 と 2 を加えて得られる 4 との間の区別ができないことと同じである。 量子の区別不能は銀行口座の 2 つの 4 ドルを区別できないことと同じである。 これらのドルを区別できるかどうかを、どうやって知ることができるだろうか。 4 ドルを 2 つの銀行口座に分けるのに、何通りの方法があるかを考えてみよう。 すべての可能性を列挙すると 口座 1 口座 2 A 4 0 B 3 1 C 2 2 D 1 3 E 0 4 したがって、 5 通りの方法で分けることができる。 さて、違った赤、緑、青、白の色をもつ 4 個のボールを考えよう。 これらのボールを 2 つの箱に配分するのに何通りのやり方があるだろうか。 A と E の場合を実現するには依然として 1 通りのやり方しかないが、 B と D を実現するには 4 通り、 C を実現するには 6 通りあり、それゆえこの配分を完了するには今度は 5 通りではなく 16 通りの仕方がある。 こうしたことは、実現するやり方が何通りであるかという数によって系のエントロピーが決まる熱力学においては重要なものとなりうる。 こうして、同一粒子の熱力学は区別可能な粒子の熱力学とは全く異なったものである。 この区別が、よく知られた量子力学のいくつかのパラドックスにおいて重要な役割を演ずることになり、そこでは区別可能性という正当化されない暗黙の仮定がパラドックスの起源となっている。 かつ、多電子系において、 2 個の電子を交換しても、新しい状態は得られない」ことをいったもので、原子中の電子の殻構造の分析から W. Pauli が、 1925 年に提唱した原理である。 この原理は、「量子数の同じ状態に、 2 個の電子が入ることはありえない、かつ、電子には個別性がない」と表現してもよい。 パウリの原理は、電子に限らず、陽子や中性子、中性微子など、他の粒子にもあてはまる原理である。 量子力学においては、パウリの原理は、これらの粒子の波動関数が、 2 個の粒子の交換に対して反対称であるという形で表現される。 自然に存在する粒子の中には、パウリの原理に従わず、同一の量子状態にいくつでも入りうることができ、かつ個別性のないようなものもある。 このような粒子をボソンという。 たとえば、中間子や光子はボソンである。 これに対し、パウリの原理に従う粒子をフェルミオンとよぶ。 電子、陽子などはフェルミオンである。

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