ドネア パッキャオ。 35歳パッキャオ王座復帰 スーパースターに衰えも

ドネア、内山、西岡が語るパッキャオ=ブラッドリーとの再戦は判定勝利を予想

ドネア パッキャオ

人生の筋書きは映画のようにはいかない、あるいは映画よりも複雑だ。 サムライ(日本刀)はボーロ(大型ナイフ)よりもずっと鋭い。 セブ州マンダウエ出身。 元WBC世界フライ級王者。 第38代・第41代OPBF東洋太平洋バンタム級王者。 スタイルはサウスポー。 2010年より真正ボクシングジム所属。 実兄であるノエル・ツニャカオも元ボクサーで井岡弘樹が持つ世界王座挑戦やイヴァン・カルデロンと対戦した経歴を持つ。 マルコム・ツニャカオがフィリピン唯一の世界タイトルを獲得してから12年が経過したが、あの夜の記憶は少しも色あせていない。 2000年5月、セブ島マンダウエ市出身の彼がWBCフライ級のメッドグン・3Kバッテリーと対戦。 ツニャカオはまだ23歳で、プロ10戦しか経験がなく、メッドグンの国タイは初めての海外での試合だった。 メッドグンはフィリピン人、正確にはマニー・パッキャオを倒してタイトルを獲得しており、この試合に向けて20勝0敗の無敗を誇っていた。 しかし、ゴングが鳴ると、ツニャカオの優れたスピードとサウスポーからのストレートが何度もヒットし、第7ラウンドでメッドグンをノックアウトし。 当時フィリピンで唯一の王者となった。 ツニャカオ 「自分でも予想外だったから勝った時は泣いたし、ハイな気分になった」 現在35歳のツニャカオは言った、現在の戦績は31勝19KO2敗3分 ボクシングの頂点に立ったツニャカオの栄光の瞬間は短いものだった。 1年も経たないうちに、新進気鋭のポンサクレック・ウォンジョンカムに1回ノックアウトでベルトを譲った。 ウォンジョンカムは殿堂入りを果たすまでその後10年間王座に君臨した。 ツニャカオにとって、この10年は終わりのないチューンナップと世界タイトル復帰への欲望に悩まされてきた。 ウォンジョンカム戦以来1度しか負けておらず、リング誌では同階級で6位と評価されているにもかかわらず、ツニャカオは世界タイトル再挑戦の機会を得ていない。 しかし、土曜日に神戸のセントラルジムでメキシコのクリスティアン・エスキベルを破れば、WBCバンタム級王者、山中慎介(17勝12KO)の挑戦者となる。 日本の真正ジム、山下正人と契約した後、2009年に日本に移籍してきたツニャカオの本拠地である日本での試合となる。 ツニャカオはトレーナーであり、幼馴染のエリベルト・ゲホンを連れてきた。 日本に住むということは、元王者の長谷川穂積や名城信男と一緒にトレーニングをすることを意味すると同時に彼の2人の息子デイブ(13歳)とマルコム・ジュニア(11歳)、そして16歳の娘シャラリンから離れることも意味する。 ツニャカオ 「家族から遠く離れているのはとても辛いことだけど、家族のためにやっているんだ。 新年を祝うために家族を訪問する予定だ。 子供たちがいなくて本当に寂しい。 私は非常に長い間待っていました、これは再び世界チャンピオンになるチャンスです。 この戦いに勝つために最善を尽くします。 」 —————— 2012年12月22日、神戸市立中央体育館、長谷川穂積の前座で山中慎介と対戦経験があるクリスチャン・エスキベル(メキシコ)とWBC世界バンタム級挑戦者決定戦を行った。 山中が観戦する中、序盤から相手をコントロールし、7RTKOにて勝利。 山中への挑戦権を獲得。 2013年4月8日、両国国技館にてWBC世界バンタム級王者山中慎介と対戦し、3回に2度ダウンを喫し、6回には山中の左で右目尻をカットし、12回に3度目のダウンを喫し、立ちあがったが、12回1分57秒レフリーストップによるTKO負けを喫し2階級制覇に失敗。 2015年9月16日、フィリピンで同棲中の女にボーロ(大型ナイフor鉈)で切りつけられ意識不明の状態で集中治療室に担ぎ込まれた。 ツニャカオが別の女と浮気をしていたことが発覚し喧嘩になった後、早朝にツニャカオの寝込みを襲ったして、女は殺人未遂容疑で逮捕された。 その後 イーグル・アイ マルコム・ツニャカオは浮気の嫉妬からセブ島で同棲していた女性に大型ナイフで何度も刺され、生命を彷徨っていたが奇跡的に回復し現在は日本人のガールフレンドと一緒に生活している。 38歳の元オリンピックメダリスト候補は、頭部に3つの傷跡が残り、背中や左手にも創傷が残っている。 薬指は切断された。 セブ島の病院のICUに2週間隔離され、手術、入院をした。 傷が動脈に至らなかったことが不幸中の幸いだった。 ツニャカオは今でも怪我と後遺症のトラウマがある。 ツニャカオ 「日本でトレーナーとしてのキャリアを再開しようとおもいますが、1年間のリハビリが必要です。 」 ツニャカオは、タランバンのナシピットにあるALAジムで育ったファイターだ。 実兄のノエル・ツニャカオもボクサーだった。 マルコムは、2000年のシドニーオリンピック出場を目指して、当時最も期待されていたアマチュアボクサーだった。 1997年から1998年までナショナルユースボクシングチームのメンバーであり、アジアユース選手権やキューバで開催されたワールドユース選手権にも出場し、フライ級で金メダルを獲得した。 シドニーまでの2年間は、当時18歳だったマルコムにとって長すぎ、ホームシックになり、マニラでのトレーニングに飽きてしまった彼はセブに戻ることを決意し、有名なALAジムに所属してプロのファイターになった。 1998年8月1日、マンダウエ市でマヌエル・ファレゴをノックアウトし、印象的なプロデビューを果たした。 その後、10連勝を記録し、23歳の若さで世界王者に輝いたが、タイのピチットでポンサクレック・ウォンジョンカムに1ラウンドKO負け、屈辱的な敗戦を喫した。 挫折後、バンタム級で11連勝を記録し、再び勝利の道を歩み始めた。 その後、2013年には山中慎介を相手にWBCバンタム級王座に挑戦。 スコアカードではマルコムがリードしており、あと1ラウンドで世界王者になる可能性があった。 しかし残念なことに、第12ラウンドで邪悪なパンチにノックアウトされ、彼のタイトルへの希望は破られた。 実は、マルコムはその間にすでにALAジムを辞め、日本の出稼ぎファイターになっていたのだ。 その敗戦後、マルコムは復帰し3勝を挙げていたが、真正ボクシングジムのトレーナーになることを決意した。 マルコムには前妻ローダとの間に19歳のシャラリィ・マーリィ、16歳のデイヴ・マーリィ、14歳のマルコム・ジュニアの3人の子供がいる。 また、娘には生後6ヶ月の孫がいる。 ローダは現在海外で生活しており、別の家族を持っている。 マルコムはリハビリの後、ジムに戻って若い選手のトレーニングに専念したいという希望を持っている。 今、日本はボクシングブームでフィリピンよりも子供たちの教育費を稼ぐチャンスがあるからだ。 マルコムは幸運にも無事で、怪我から回復している。 日本で襲われていたら最悪の事態になっていたかもしれない。 サムライ(日本刀)はボーロ(大型ナイフ)よりもずっと鋭いのだから。 減量苦でヘロヘロのマニー・パッキャオをぼろ雑巾のように破って王者になった当時無敗のメッドグン・3Kバッテリー。 その男を圧倒し復讐を果たしたのが同胞のマルコム・ツニャカオだった。 当時リアルタイムでこの瞬間だけきりとれば マルコム・ツニャカオという天才の出現、マニー・パッキャオよりずっと強く、才能豊かなヒーロー のはずだった。 しかし、人生の筋書きは映画のようにはいかない、あるいは映画よりも複雑だ。 ここからは私の勝手な妄想。 記事を読むと、マルコム・ツニャカオは天才、エリートだ。 当時のボクシングをみてもそう感じた。 しかしこの男は我慢が足りなかったのではないだろうか。 シドニーオリンピック最有力候補だったが、待てずホームシックになりプロ転向。 セレス小林との防衛戦は前半、ライオンと猫ほどの能力差があったが、セレス執念の粘りのボディの前に大失速。 (引き分け) フィリピンの天然の天才は、タイの努力家に初回KOで敗れた。 その後は気の毒なほどチャンスに恵まれず、日本でチューンナップを繰り返してきたが、当時最強の山中には勝てず(記事では勝ちかけていたとあるが、そんなことはない。 ) 女性関係には触れないが、いつもそばにガールフレンドがいて、子供も孫もいる。 我慢が足りないから、その都度大きな代償を払わされてきたようにみえる。 マルコム・ツニャカオが出てきた時は、もっと偉大な世界王者になる男だと確信したものだ。 サーシャかツニャカオかというくらいチャンスに恵まれなかった。 フィリピンにはこういうストーリーもまた多い。 日本でマルコムと対戦した経験のある元ボクサー姫野と申します。 当時世界ランキングを持っていたマルコムに挑戦しましたが、まともには当てさせてくれず高いスキルを見せつけられました。 その試合後に日本でのスポンサードを受けていたマルコムが自分の所属ジムに出稽古に来ました。 すぐさまスパーリングパートナーを買って出て、密かにリベンジマッチと位置付けていましたが、蓋を開けてみれば試合の時よりスパーの方が数段強かった… ヘッドギアの有無なども影響があったのかなと記憶していますが、驚かされたのを覚えています。 山中選手との待ちに待った世界戦ではなんとしても獲得して欲しかった。 世界戦の前に激励しに、真正ジムまで行かせてもらいました。 次のチャンスが来なかったことはとても口惜しいことだったと思います。

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ドネア、内山、西岡が語るパッキャオ=ブラッドリーとの再戦は判定勝利を予想

ドネア パッキャオ

2007年7月の試合、IBF世界フライ級チャンピオンのダルチニャンに挑む挑戦者のドネア。 ダルチニャンは同タイトルを6度防衛していて、28戦全勝22KO。 当時のフライ級最強と言われていました。 圧倒的不利かと思われた試合でしたが、ドネアにはチャンピオンになる以外にもこの試合には特別な意味がありました。 同タイトルのダルチニャンの5度目の防衛戦で、ドネアの実の兄、グレン・ドネアが負傷判定で負けています。 チャンピオンになりたい思いも当然ですが、それ以上に兄の敵討ち的な思いの方が強かったかもしれませんね。 ちなみにこのKOシーンは、リングマガジンのノックアウト・オブ・ザ・イヤーに選ばれています。 動画を見ればわかりますが、見事なカウンターです。 ドネアのカウンターの上手さを見せつけたフェルナンド・モンティエル戦 2012年12月、WBO世界S・バンタム級タイトルマッチ。 チャンピオンドネアの3度目の防衛戦。 相手は5階級制覇しているメキシコのファイター、ホルヘ・アルセ。 戦前の予想の段階でドネア有利でしたが、結果は予想以上の実力差がありました。 モンティエル、アルセとメキシコの有名なボクサーをなぎ倒している様は、同じくメキシカンキラーと呼ばれて飛ぶ鳥を落とす勢いのマニー・パッキャオと重なりました。 バレラ、マルケス、モラレスとメキシカンの有名ボクサーを倒してアメリカンドリームを勝ち取ったパッキャオ。 それに続けと、ドネアも同じ道を歩んでいると確信しました。 フェザー級王座獲得以降のドネア これまでの動画を見てもわかりますが、ドネアの武器はカウンターの左フックです。 軽量級としてはあり得ないほどの破壊力があります。 この左フックで世界ランカーを倒してきた実績があるからか分かりませんが、フェザー級王座獲得以降、手数が少なく一発狙いの選手になりました。 元々待ちのスタイルの選手でしたが、さらに待ちのスタイルに磨きがかかりました。 ジャブで丁寧に相手を追い詰める昔のドネアの姿は、今のドネアにはありません。 フェザー級でのウォータースとの力対決に負けた一戦が、さらに一発の力に頼るようになったのかもしれません。 私が選ぶ、ドネアのベストバウト 2013年11月、フェザー級の10回戦。 ノンタイトル戦ですが、注目を集めた試合です。 私的に、この試合がベストバウトに選びます。 一度カウンターで敗れたダルチニャン、前回の反省を踏まえて丁寧に攻めてきます。 対するドネアも再度カウンターを狙おうと丁寧に攻めます。 お互いパンチがある事を分かったうえでの緊張感。 全ラウンドを通じて、ピリピリした空気が張り詰めています。 途中まではダルチニャンの方がポイントをリードしていました。 ドネアのフックを警戒して防衛も意識していたダルチニャンはかなり強かったし、上手かったです。 ですが、最後のダルチニャンのスキをついたドネアのカウンター、見事としか言いようがありません。 フィリピーノ・フラッシュ、再び炸裂する日を期待しています。

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ノニト・ドネア

ドネア パッキャオ

「フィリピーノ・フラッシュ」 ノニト・ドネア特集• 今回のエキサイトマッチは、日本にも多くのファンを持ち、また自身も日本の歴史や文化に興味を抱いている元5階級制覇王者、「フィリピーノ・フラッシュ」ノニト・ドネア(37=フィリピン)を特集する。 ギリギリまで相手を呼び込んでおいて振り抜く左フックが代名詞ともいえるドネアは、その伝家の宝刀で数多くの印象的なダウンシーン、KOシーンを生み出してきた。 敗れはしたものの井上尚弥(27=大橋)をあと一歩のところまで追い込んだ激闘もファンの記憶に新しいところだ。 今回は、そんなドネアの足跡を視聴者のベストマッチ・ランキングに沿って紹介していく構成になっている。 絶妙の左カウンターでダルチニャン、モンティエルらをKO ノニト・ゴンザレス・ドネア・ジュニア(フィリピンでのDONAIREの呼称はドナイレ)はフィリピン生まれだが、少年時代に家族でアメリカに移住し、11歳のときにボクシングを始めた。 アマチュアではジュニア五輪全米大会(1999年)や全米選手権(2000年)で優勝するなど86戦78勝(8KO)8敗の戦績を残した。 KOの数が少ないが「アマチュア時代は勝つことを第一に考えていたから」とドネアは説明している。 兄グレン・ドネアに続いて2001年にプロ転向を果たし、2戦目に体調不良のために判定負けを喫した以外は順調に白星を重ねていった。 2006年にNABF北米スーパー・フライ級王座を獲得するなどし、翌2007年7月にはビック・ダルチニャン(アルメニア/オーストラリア)の持つIBF世界フライ級王座に挑戦するチャンスをつかんだ。 しかし、6度の防衛を含めて28戦全勝(22KO)のサウスポー王者が相手とあって戦前の予想は圧倒的不利だった。 9ヵ月前には兄のグレンもダルチニャンに6回負傷判定負けを喫していたほどだ。 ところがドネアは危険な王者に臆することなく立ち向かい、相手の動きを冷静に見極めたすえ5回に鮮やかな左フックのカウンターを一閃。 この一撃で世界一の座に上り詰めた。 この試合は2007年の「ノックアウト・オブ・ザ・イヤー」と「アップセット(番狂わせ)・オブ・ザ・イヤー」に選ばれている。 フィリピンでの凱旋防衛戦で24戦全勝(14KO)のラウル・マルチネス(メキシコ)を4度倒して一蹴するなどV3後、スーパー・フライ級に上げてWBA暫定王座を獲得し、2010年にはさらにバンタム級に転向。 テストマッチで元王者のウラディミール・シドレンコ(ウクライナ)を蹴散らしたあと、2011年2月にはフェルナンド・モンティエル(メキシコ)の持つWBC、WBO王座に挑んだ。 この試合はドネアのベストファイトのひとつに挙げられるもので、紙一重のタイミングで相手のテンプルを打ち抜いた左フックには戦慄さえ感じたものだった。 12年にはWBO世界スーパー・バンタム級王座も獲得。 IBF王座を吸収後、WBC王座を7度防衛した実績を持つ西岡利晃(帝拳)にも9回TKO勝ちを収め、その2ヵ月後には元5階級制覇王者のホルヘ・アルセ(メキシコ)をも3回でキャンバスに沈めた。 24歳だった2007年のダルチニャン戦から30歳になって迎えた2012年のアルセ戦まで、ドネアは2つの無冠戦を含め14戦全勝(10KO)をマークしている。 この5年間がドネアの全盛期だったといってもいいだろう。 フェザー級での冒険後にバンタム級でWBSS参戦 2013年にスーパー・バンタム級のWBA王者だったギジェルモ・リゴンドー(キューバ)との統一戦で判定負けを喫すると、今度はフェザー級に転向。 サイズ不足を技術で補って5階級制覇を成し遂げたが、大柄なニコラス・ウォータース(ジャマイカ)には6回TKOで敗れた。 これを機にスーパー・バンタム級に戻り、2015年にはWBO王座で返り咲きを果たした。 V2戦でジェシー・マグダレノ(アメリカ)に物議をかもす判定負けを喫したあと再びフェザー級での冒険に乗り出したが、カール・フランプトン(イギリス)に明白な判定で敗れた。 大まかにみると、この5年間は低迷期と位置づけてもいいかもしれない。 この間、トップランク社からリングスター・スポーツにプロモート会社を変え、トレーナーもイスマエル・サラス、マイケル・バゼル、そしてケニー・アダムスへとチェンジした。 そして2年前、階級最強を決めるトーナメント「ワールド・ボクシング・スーパー・シリーズ(WBSS)」がバンタム級で実施されることが決まると、ドネアは7年ぶりに118ポンド(約53. 5キロ=バンタム級)に落とすことを決意。 その初戦ではWBAスーパー王者のライアン・バーネット(イギリス)が試合中に腰を痛めるアクシデントもあり、4回終了TKO勝ちで王座返り咲きを果たした。 WBSS準決勝ではWBO王者のゾラニ・テテ(南アフリカ共和国)と王座統一をかけて拳を交える予定だったが、肩を痛めたライバル王者が試合4日前に棄権。 ドネアはリザーバー(代役)のステファン・ヤング(アメリカ)と対戦し、左フックで6回KO防衛を果たした。 ダルチニャンやモンティエルを沈めたころのスピードやタイミングは感じられなかったが、それでも十分に存在感を示すKO劇だった。 こうして記憶に新しい井上とのWBSS決勝戦に駒を進めたわけだが、その試合に関しては説明不要だろう。 ダルチニャンとの初戦、マルチネス戦、シドレンコ戦、モンティエル戦、西岡戦、アルセ戦、井上戦などはトップ10入り間違いなしと思われるが、はたしてどんな順列になっているのか楽しみだ。

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