日航 機 墜落 事故 原因。 第76回:日航123便はなぜ墜落したのか(森永卓郎)

日本航空ニューデリー墜落事故

日航 機 墜落 事故 原因

1985年8月12日。 「この出来事を風化させてはならない。 暗い夜空を眺めてほしい、そこに何が見えるのか……。 そして未来のためにともに考えてほしい。 今から三十二年前の八月十二日に何が起きたのかを。 あの夜は、山々の稜線が漆黒の夜空に隠れ、ペルセウス座流星群の星たちが次々と流れては消えて、まるで死者の魂が飛び交うようであった。 ガーガーガーンと強い衝撃の後、様々な固形物や砂が次々と頭にぶつかり、体が宙に投げ出された。 左目は砂にまみれて目が飛び出したように痛い。 口は乾き、砂でいっぱいだ。 シートベルトが体に食い込んでお腹がちぎれそうに苦しい。 「はあ、はあはあ」と荒い息遣いをしながら、つい先ほどまでの身の毛もよだつ恐怖がよみがえる。 「ああ、墜落したのだ。 大変な事故を起こしたのだ」 周辺からも、はあはあと、荒い息遣いが聞こえてくる。 「おかあさん」「早くきて」「ようし、僕は頑張るぞ」そんな声も聞こえてくる。 すると、闇の中からヘリコプターの音が近づいてきた。 夏山特有の湿り気のあるもったりとした空気が、一瞬にしてかき乱される。 バリバリバリと爆音をたてて、木々の葉を大きく揺らしながらゴーゴー、バババーとホバリングを始めた。 辺り一面、埃や砂、機械の臭いが舞い上がる。 「ああ、私は生きている、これで助かる」 全身の痛みをこらえ、かろうじて動くほうの右手を必死に空に向かって伸ばした。 「助けてください、私は…ここに…」と、夢中で手を振る。 「助けて」「帰っちゃいや」「誰か来て」 そのような何人もの声をかき消すように、ヘリコプターは爆音と共に段々と遠くへ去っていった。 周りでは、はあはあと何人もの荒い息遣いだけが聞こえてきた。 一九八五年八月十二日(月)。 日航ジャンボ機123便(ボーイング747、登録機体番号JA8119)が、東京羽田空港を離陸して、大阪伊丹空港へ向かう途中、突発的非常事態に陥り、「群馬県上野村の御巣鷹の尾根」と後に命名された高天原山系無名の地に墜落した。 前述は、乗客乗員五百二十四名のうち、四名の生存者の一人、非番で乗客として乗り合わせた客室乗務員の落合由美さん(二十六歳)が発表した「落合証言」に基づく記述である。 当時、墜落後に遺体を検死した医師によると、落合さんが救出された場所の周辺には、つい先ほどまで生きていた痕跡のある生温かい遺体があり、早急に救助がなされていれば命が助かっていたのではないだろうかと思われる遺体が百体ぐらいはあった、ということであった。 墜落現場が不明のまま夜が明け、翌日の十三日、落合さんは地元の消防団員によって十時五十四分に発見されたが、それから灼熱の夏山の山頂で放置状態となった。 生存者発見の通知をうけた日赤の医師二名と看護婦二名は、警視庁のヘリコプターで十二時十三分に現場上空に到着し、救命用綱で降下した。 医師と看護婦による応急処置をしたのだが、その後まったく救護のヘリが来なかった。 山頂で生存者を見守る地元の消防団からも、「せっかく救助したのだから早く搬送してくれ、自衛隊のヘリに連絡してくれ」という声が次々上がる。 医師も声を荒げながら「物資や自衛隊員の降下よりも、救助された生存者を搬送することを優先させてくれ」とその場にいた自衛隊員に詰め寄り、直接交渉をした。 やっと救護用ヘリが到着し、十三時五分にようやく生存者のヘリへの収容が始まり、子どもから先にヘリコプターで機体に吊り上げられた。 落合さんは最後に担架ごとクルクルと回転しながら十三時二十八分に無事収容された。 生存者四名を収容した自衛隊ヘリのパイロットは十五分で到着するはずの上野村の本部の場所がわからないという。 そこで医師が必死に地図や地上の風景を見ながら場所を指示し、十三時五十分にようやく到着した。 結局、「生存者発見から猛暑の炎天下で三時間以上もかかってしまった」と述べていたのは、四名を救出した前橋赤十字病院外科部長の饗場庄一医師である。 さらに上野村役場から救急車で二時間近くも揺れるのは大変危険だと判断をした饗場医師は、子ども二名を再度別のヘリに乗せた。 最終的に生存者四名が藤岡の多野病院に着いたのは十四時二十分と記録されている。 前日の十八時五十六分二十八秒に墜落してから、すでに二十時間が経過していた。 なお、生存者は川上慶子さん(十二歳)、吉崎美紀子さん(八歳)、吉崎博子さん(三十五歳)、落合由美さん(二十六歳)の四名である。 当時、スチュワーデスと呼ばれていた客室乗務員だった私は、日本航空株式会社客室乗務員女子寮、通称スカイハウス(品川区港南)に住んでおり、生存者の一人、落合由美さんと同じフロアに部屋があった。 私の同期と落合さんが同じグループで親しかったこともあって、仲間と部屋で開く鍋パーティーにひょっこり顔を出してくれたこともあった。 陽気でカラカラと明るい声で笑う親しみやすい先輩であった。 一九八五年八月十二日のこの日、私は明日からのヨーロッパフライトに備えて寮の食堂で夕食を取っていた。 食堂のテレビでは、NHKの七時のニュースが流れていたが、突然、緊急放送が入った。 日航羽田発大阪行きの飛行機が行方不明という報道であった。 その時、食事をしていた全員の箸が一斉に止まった。 私も背筋がひやっとしたのを覚えている。 そのままテレビを見つめていた直後、スカイハウスのすべての部屋にひかれていた三百三十六台のダイヤル式黒電話のベルの音が一斉に響き渡った。 それぞれの家族や友人、知人たちが心配して電話をかけてきたのである。 ジリリリリーン、ジリリリリーン……。 怒りにも聞こえるものすごい音で、外を歩く人々が建物を見上げるほどであった。 一晩中電話が鳴り止まない部屋は、落合さんの部屋であった。 そして事故機に乗っていた客室乗務員は、私が新人時代に仕事を教えてもらった同じグループの先輩たちだった。 圧力隔壁修理ミスが事故原因だと公式発表されているが、現場でこの事故に関わった人たちの中には、腑に落ちない出来事が多数あり、それが今なお心の奥底に大きな疑問となって渦巻いていることにも気付かされた。 事故原因については一部の過激な陰謀説、根拠の薄い憶測も多々あり、それがかえって再調査への道を妨げていることもある。 私自身も自衛隊の誤射やミサイルという言葉すら不愉快で違和感を覚えていた。 しかしながら、現場を知る人たちへのインタビューや膨大な新聞等の資料を読み込み、目撃情報や現場の証言をもとに考察を深めると、公式発表に対して違和感を覚えるようになっていった。 そして、それを語るとすぐに陰謀説と烙印を押されかねない状況を感じた。 もっとも、一般の人々には圧力隔壁修理ミス説が事故原因という報道しか届いていないこともあってしかたがないが、三十二年前の事故時の情報や状況にいまだに疑問を持ち続けている人たちがいることを知った以上、私の果たすべき役割はなにかを考えてきた。 逆に事実を一つずつ積み重ねていけば、新たな真実が見えてくるのではないだろうか。 そう思い、墜落現場となった上野村へ行き、当時の村長や消防団の方から話を聞いた。 当時の上野村の村長・黒澤丈夫氏には、取材時にあの日の記憶を語っていただいたが、十二日の晩にすぐ墜落現場は自分たちの村だとわかり、村民にも村内放送をして情報提供を呼び掛けていたという。 上野村に落ちたと政府関係者や県に連絡してもまったくテレビに反映されず、長野県やら小倉山やら偽の情報が流れていたことに怒っておられた。 また、川上慶子さんら生存者を最初に発見して救出した地元消防団の方や、歯型から遺体の身元を確定して検死を行った群馬県警察医の大國勉氏にもお会いして、たくさんの資料を見せていただき、話を聞かせていただいた。 大國氏も遺体の状況に大きな疑問をお持ちだった。 このように詳細に調べていくと、ますます事故調査委員会発表の事故原因は違うのかもしれないと大きな疑念を抱いた。 ちょうどその頃、日本航空が経営破たんし、負債総額二兆三千二百二十一億円というとてつもない金額で、会社更生法を申請したのである。 単行本 - ノンフィクション•

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日航機墜落は自衛隊のせい――元CAが書く「御巣鷹山」トンデモ本

日航 機 墜落 事故 原因

日航機墜落事故の概要 1985. 12 乗客乗員 524 人を乗せた日航 123 便が上野村山岳地帯に墜落して、 520 人が死亡、 4 名が重傷を負った、世界で最大、最悪の旅客機事故。 事故調査委員会が修理ミスの隔壁が破壊し、操縦不能に陥り、墜落したとの公式報告書を発表。 事故原因が記載されず、多くの疑惑、矛盾が指摘されたが、国は一切説明責任を果たさず、告訴された「ボーイング社」「日航」「航空局」も無罪が確定して、迷宮入りになった旅客機事故。 空の安全が第一の航空行政の航空局が再調査の指示を不作為して、権力者、自衛隊の加害責任を隠蔽した事件。 多くの方の賛同を得たが、一方反論も受けた。 本の表紙写真は 下に示す。 航空局、事故調査の安全委員会も一切公開質問状に回答せず、無視し、マスコミも傍観の姿勢を貫く情勢が続く。 権力者の自己保身のための情報統制は依然として、生きている。 掛かる著作で日航 123 便墜落の真実は 完全に明らかに出来たと考えるが 全ての方に理解出来、 満足の行くものではないかも知れない。 何故なら、事故調査の全ての記載は無理で、ここでは事故調査での裏話や背景、動機など補足説明を行うことで、より一層理解して頂けることがこの HP での説明の目的なのであります。 *著者・遺族 小田周二 プロフィール 生年月日 1937 年 奈良県御所市生まれ 学 歴 大阪大学工学部応用科学 化学工学修士 職 歴 プラスチック製造会社に勤務 研究、開発、製造、整備、品質管理、 TQC などに従事 現 在 神奈川県横浜市に在住 家 族 日航 123 便墜落事故( 1985. 12 )での犠牲者として、 次男小田浩二( 15 歳)小田陽子( 12 歳) 親戚 中上岑子 37 歳 中上義哉( 12 歳)中上佳代子( 10 歳) が死亡した。 12 連絡会 に参加 ・日本の空の安全を願う会 主宰 ・著作 「日航 123 便墜落事故 真実と真相」( 2015. 3 文芸社) 「 524 人の命乞い-日航乗客乗員怪死の謎」 2017. 8 文芸社) ・その他 「日航 123 便撃墜事件 真実と真相」「日航123便は何故 墜落したのか」など 著作 多数 ・公開質問状 「航空局」「運輸安全委員会(事故調の後継組織)「 日本航空」に提出。 前記「航空局」「安全委員会」からは一切 回答ナシ。 ・「日本航空」とは、事故原因について十数回 事故原因究明技術会議を開催中。 ・「仮説 X 」: 日航123便墜落の真実に基づき 告訴状を前橋地検に提出 2016. 12)(2017. 12) 前橋地検より「不起訴」処分の通告。 理由「嫌疑なし」 (2018. 29) 事故調査委員会の事故原因「隔壁破壊説」は捏造された結論だった!! 日航 123 便の垂直尾翼の破壊は事故の端緒であるが、これを後部隔壁部の破壊が原因だとし、墜落の原因とした段階で、事故 調は墜落の事故原因を意図的に捏造を行ったのである。 本来の事故調査は帰納法であるが、事故調は演繹法、三段論法で行った。 墜落の事故原因:結論を先に決めての杜撰で疑惑の推論である。 事故調査の科学的推論では「 CVR 」 [DFDR] 「残骸」だけでなく、より重要な目撃 目撃証言、関係者証言、告白を証拠と• して 採用するが 事故調は無視しており、意図的な手抜きで捏造が行われた証拠である。 壊滅的な垂直尾翼の破壊は機内高圧空気の流出では起きない。 更に同時に APU も破壊することは 、科学的に流体力学的に• 起きない。 自衛隊司令官は垂直尾翼の破壊は「標的機の衝突だ」と告白し、日航も直後に「外部からの力で破壊した」と主張している• 日航事故機の操縦性の判断として、事故調も「飛行の継続が出来た」ボーイング社も「旋回、上昇、降下飛行が出来た」• と提起し、 CVR の会話記録からも機長の指示に佐々木パイロットが忠実にコントロールしていて、手動でのエンジン出力調 整による操縦が出来たことを示している。 操縦出来れば、横田に着陸出来るのは業界の常識で日航も認めている。 高濱機長は横田に着陸を申請して横田は許可しているアントヌッチ中尉は無線傍受で確認し証言した。 然るに 何故横田に着陸出来なかったかの説明がないのは自衛隊戦闘機の追跡事実から、権力と武力による着陸妨害、禁止によるものと判断出来る。 川上村レタス畑で多数の農民は 123 便の不時着を目撃しているが、報告書には記載がなく、又飛行航路、飛行高度も大きな相違がある。 CVR,DFDR の修正、書き直しが行われたと判断出来る。 日航 123 便の墜落の事故原因が特定せず、書かれていない。 失格の公式報告書である。 墜落の直前に生還者の落合由美氏は「物凄い横揺れして、急降下: : 墜落した」と証言し、 CVR には「機長らの驚愕の絶叫」が記録されている。 地上の住民が「炎を上げ、黒い煙を出して飛行する 123 便」「 123 便を置き掛ける流れ星」を目撃し、墜落の数時間後には 日航副長町田直が「日航機は ミサイルで撃墜されたんだ」と遺族に真っ青な顔で告白している。 自衛隊、群馬県警は生存者救出を意図的に放棄し、自衛隊特殊部隊は重傷の生存者の毒ガスでの殺害を図った。 生存者救出に命がけで活動した米軍アントヌッチ中尉の活動には、日本側からの救出中止、撤退、活動の緘口令を要請した。 事故調はこのアントヌッチ中尉の活動を一切報告しなかった。 自衛隊幹部は救出活動の不作為の言い訳をしたが 10 年後にアントヌッチ中尉が告白しても一切説明責任を果たしていない。 事故から2年後事故調は「隔壁破壊説」なる事故報告書を公表した。 多くの疑惑、矛盾を提起されても事故調は一切無視して説明責任を果たさなかった。 1999 年、事故調は世界最悪の日航 123 便墜落事故の資料を完全に廃棄した。 捏造の証拠を処理廃棄し、再調査への道を閉ざす暴挙であった。 事故調の後継である「運輸安全委員会」は、事故から 26 年後、遺族だけを集めた「隔壁破壊説の説明」を分かり易く解説する集会を開催し、遺族を洗脳し、事故原因の方針を変更させる暴挙を実施し、成功した。 事故から、 30 年後、 2015. 8 航空局、日航は 1990. 7 の前橋地検の不起訴判断を持ち出し、告訴された「ボーイング社」「日航」「航空局」の三者は無罪だと断言し、司法として「無罪は確定している」と文書で通達して来た。 加害者だとして遺族に補償金を支払った日航は 2016. 8 「支払った金は一時的なお見舞い金だ」と文書で訂正して来た。 ここに、事故調の「隔壁破壊説」は崩壊した、事故調、国は 嘘を吐いたことを 航空局、日航が認めたのである。 日航 123 便ミサイル撃墜乗客乗員殺害事件は 自衛隊の不祥事を完全に隠蔽して、権力の維持を図るために、総理と自衛隊がテロ攻防して実行した残虐な市民殺害であると判明した。 報告書を捏造し、操縦出来る 123 便の横田への着陸を禁止し、最後はミサイルで撃墜した。 更に完全犯罪を目論み、生存者の毒ガスでの殺害を図った残忍な事件であったことがここに明らかになったのである。 *この詳細は 小田周二著「日航 123 便墜落事故 真実と真相」「日航 123 便乗客乗員怪死の謎 524 人の命乞い」に記載した。 この本に書ききれなかったことは小田のブログに書き込み、報告したくブログを読んで検討して頂きたい。

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中曽根元総理が知る日航機墜落事故の真実とは?墓場まで発言の真意を調査!

日航 機 墜落 事故 原因

Sponsord Link の上野村にある 御巣鷹山に墜落。 羽田空港発の JAL123便、伊丹行き。 お盆の時期の帰省ラッシュに重なり、 ジャンボ機は 満席状態であった。 以下は、その墜落したJAL123便 の本物であろうと思われます ボイスレコーダーの動画です。 必死に墜落を回避しようとする機長 たちの 勇気ある行動を見ていると 胸が詰まりそうになります。 墜落後の救助が遅れた? 救助活動が始まったのは、なんと 墜落から14時間後の午前8時半 ごろであった。 なぜ、救助活動が遅れたのか? これが 謎の1つと言われています。 ちょっと 遅すぎる。 救出が遅れた理由に、あたりが暗く なってきたため、 夜間の山岳への降下 が 不可能だったと言われています。 しかし、8月であれば 朝5時とか6時に は 明るくなるはず・・・もっと早く救出 活動が始められたのではないか・・・ しかも実は、 墜落の1~2時間後に 米軍ヘリが上空に到着していた という噂があります。 米軍の救出作戦はなぜ、行われ なかったのか? 生存者の方の証言に、墜落後すぐに ヘリコプターの音を聞いたとあります。 当時の米軍の方からの話では、横田 基地から 「帰還せよ」との指令がきた とのこと。 司令部から自衛隊が来るので帰還 せよ、命令され、 仕方なく帰還した とのことなのです。 米軍の救難援助を断った理由は? つまりは 日本政府が断った、という ことです。 事故後2時間まで、首相官邸で行わ れいたのは、警察、防衛庁すなわち 自衛隊の どちらが主導権を握るか争 っていたとのこと。 事故から1時間で米軍のヘリが到着 したが、米軍の救出活動を依頼した ら 日本政府がたつてがなかった・・・ つまり、 断らざるえなかった・・・ メンツだけのために、救出活動を 遅らせた可能性があるのです。 これが真実なら、 情けなく悲しいこと ですね・・・・ しかも この隠蔽体質は、2011年に発生 した 東日本大震災にも見られました・・・ 日本政府の脆弱な部分は、今、現在を もっても 変わってないということです。 Sponsord Link 墜落原因が解明されてない? 解明されているのかもしれないが 非公開なのである。 日本航空(JAL)も事故調査を実施して 2002年の8月に 報告書をまとめている。 これが非公開なのである。 そもそも 非公開にできる日本という国の 仕組みが不思議すぎる・・・ 二度起こしてはいけない凄惨な事故の 原因を国民に公表しないなんて・・・ なんなんだ・・・ 日本という国は・・・・ 判明している事といえば、 破損したとされ る 垂直尾翼の大半は、未回収となってお り、その 破壊原因が特定できていない。 こんな、 おそまつな公表しかされてい ないのだ。

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