薬師寺。 所在地・交通

薬師寺

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天平時代建築の塔がそのまま残り国宝に! 薬師寺・東塔は、一見すると三重塔には見えませんが(六重の塔と勘違いする場合が多い)、屋根と屋根との間に入っているのは裳階(もこし)と呼ばれるもの。 白鳳時代の偉容を現代に伝える見事な塔で、裳階を施した金堂や塔のたたずまいの美しさを「龍宮造り」と呼んで都の人々は目を見張ったのだとか。 塔の基部には仏舎利(釈迦の遺骨)を納めるのが習わしです。 薬師寺東塔は平成21年から平成32年6月頃まで解体修理が行なわれ、覆屋に覆われています。 薬師寺は「古都奈良の文化財」として世界遺産に登録。 明治時代のアメリカの美術研究家アーネスト・フェノロサ(Ernest Francisco Fenollosa)は、この東塔を見上げて「凍れる音楽」と絶賛したともいわれていますが、その説は都市伝説で、根拠や出典はありません。 旅行書やブログで安易に書き写されて、さも真実のように喧伝されていますが、フェノロサが語ったとか、記したという記録は見つかっていないのです。 「凍れる音楽」と評したのは、実は美術評論家の黒田鷗心(くろだ ほうしん)。 「建築は〈凍れる音楽〉だと云われてゐるが、其の最も好い例を此の三重塔に於いて見る事が出来る」(黒田鷗心著『奈良と京都』趣味普及会/大正5年)としっかりと記述しています。 薬師寺・東塔 DATA 名称 薬師寺・東塔/やくしじ・とうとう Yakushi-ji Temple,Toto(East Pagoda) 所在地 奈良県奈良市西ノ京町457 関連HP 電車・バスで 近鉄橿原線西ノ京駅から徒歩2分。 またはJR奈良駅から奈良交通バス六条山行きで18分、薬師寺下車すぐ ドライブで 西名阪自動車道郡山ICから約7. 5km。 第二阪奈道路宝来出口から約5km 駐車場 薬師寺駐車場 100台/有料) 問い合わせ TEL:0742-33-6001/FAX:0742-33-6004 掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 ダムの大きさは堤高でも表現しますが、その機能を考えると総貯水容量も大切。 水がめの役割は、発電だけでなく、上水道、工業用水、農業用水、さらには洪水防止と多目的に活用されているのです。 さらに加えて、湖上遊覧など観光スポット... カテゴリ:• 日本最大の湖といえば琵琶湖ですが、では2番目というと、正解率は一気に下がります。 東海地区の人は、浜名湖はベスト5入りしていると確信していますが、実は浜名湖は10位。 大きさ順にいえば、琵琶湖、霞ヶ浦、サロマ湖、猪苗代湖、... カテゴリ:• 授業で習った「カルスト地形」。 地表に露出した石灰岩が雨水などで浸食されて誕生した地形のこと。 実は、日本各地にこの石灰岩地帯はあるのですが、日本三大カルストと呼ばれる大規模な奇観は、有名な秋吉台(山口県美祢市)、四国カルス... カテゴリ: ,• 日本一高い山は、富士山ということは知られていますが、では2番というと・・・。 案外知られておらず、南アルプスの北岳で標高3193m。 山男ならベスト3はスラスラのはずですが、実は、近年、3番めは、奥穂高岳(北アルプスの最高... カテゴリ:• 日本の湖の透明度は、有名な摩周湖が不動の1位。 平成3年度に環境庁自然保護局が行なった第4回湖沼調査の透明度ランキングを紹介すると、BEST10は、いずれも東日本(長野以東)で、しかもすべての湖がカルデラ湖か堰止湖となっ... カテゴリ:• 有名だから行ってみたけど、かなりガッカリした・・・、というのが喧伝(けんでん)されて誕生したと推測される「日本三大がっかり名所」。 有名税にも思える、ちょっぴり不名誉な3ヶ所は、札幌市時計台(北海道札幌市)、はりまや橋(... カテゴリ:• 平成6年に竜神峡に架けられた歩行者専用の吊り橋「竜神大吊橋」は、12年の長きにわたって日本一の地位を守りました。 それに代わって1位となったのが九州・大分県の九重"夢"大吊橋。 平成18年10月30日に日本一を奪取し、多くの... カテゴリ: , , , , , , , , , ,• 意外に知られていませんが、日本は深い湖がたくさんある、「深い湖大国」、どうして深い湖が多いかといえば、理由は簡単、火山国だから。 日本の湖で、深さランキングTOP10のなかで、8湖がなんとカルデラ湖(火山の爆発による陥没... カテゴリ:• 歴史的に有名な日本を代表する滝3つを選んだ日本三名瀑。 一般的には日光の華厳の滝、熊野の那智の滝、奥久慈の袋田の滝が日本三名瀑ですが、選者がいるわけではなく、あくまで一般的にということに。 というわけで、華厳の滝、那智の滝に... カテゴリ: , ,• 日本三大峡谷(日本三大渓谷)と通称されるのは、黒部峡谷(富山県)、清津峡(新潟県)、そして関西では有名な大杉谷(三重県)。 長らく人跡未踏だった黒部峡谷(国の名勝)、柱状節理が見事な清津峡(国の特別名勝・特別天然記念物)... カテゴリ:.

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本薬師寺

薬師寺

2013年4月2日よりカウント 【夏休み前集会】 7月31日(金)、夏休み前の集会を、新型コロナウイルス感染防止のためオンライン会議システムを利用し、校長室と各教室をつないで行いました。 「この2ヶ月間よく頑張ったこと」、夏休みついて、「ゲームやインターネットのやり過ぎなど、自分をだめにする過ごし方をしないこと」、「自分や家族のためになる過ごし方をしてほしいこと」、「コロナウイルス感染への注意」について話をしました。 子供たちは真剣に、良い姿勢で聞いていました。 栽培委員会は、校舎前の花壇に水をやったり草をむしったりして環境整備に取り組んでいます。 図書委員会は、本の貸出・返却の手続きを行っています。 広報委員会は、薬師寺小の子供たちが元気なあいさつができるようになるよう、あいさつ運動を行っています。 どの委員会も、みんなのために頑張っています。 【プール掃除】 6年生がプール掃除を行いました。 今年度は新型コロナウイルスの影響で水泳の授業は実施できませんが、汚れを来年に持ち越さないために掃除をしてくれました。 後輩たちのために頑張ってくれた6年生に感謝です。 コロナウイルス感染防止のため、全員マウスシールドをつけて掃除をしました。 放送委員は、毎日朝や給食の時間に一日を気持ちよくスタートできるよう、給食をおいしく食べられるように放送しています。 体育委員は、業間等に外遊びをして昇降口に戻ってくる児童のために、暑さ対策として昇降口でミストの噴霧を担当しています。 それぞれ、みんなのために頑張ってくれています。 【委員会活動5・6年生】 5年生と6年生で組織している各委員会が、様々な活動をしています。 美化委員会は昇降口や階段の清掃をしています。 保健委員会は水道のシャボネット用石けん水を交換しています。 給食委員会は給食のワゴンの整理やゴミの処理をしています。 これらは活動の一部ですが、それぞれみんなのために頑張ってくれています。 【2年生かわいい作品ができました】 2年生が図工の「ギュッとしたい わたしのお友だち」という学習で、作品を作りました。 とてもかわいい作品ができ、子供たちは本当の友だちのように大切にしています。 【全児童にマウスシールド】 新型コロナウイルス感染防止対策として、毎日子供たちも職員もマスクを欠かせませんが、授業中などの活用を前提に、マウスシールドを、入れておく透明の巾着袋とともに全児童分購入しました。 外国語の授業などで活用しています。 【ふるさと学習3・4年生】 6月26日(金)3・4年生が、ふるさと学習で「えごま」の苗植えを行いました。 市文化財課や下野薬師寺歴史館の方、ボランティアの方々が準備してくださり、子供たちはその苗を植えさせていただきました。 秋の収穫が楽しみですね。 また、薬師寺跡についても説明をしていただき、ふるさと薬師寺についての良い学習ができました。 【身体計測始まる】 新型コロナウイルスの影響で実施できていなかった身体計測を6月29日より開始しました。 昨年より大きくなった自分を感じてほしいと思います。 順番を待つときは、もちろんソーシャルディスタンス保って、静かに待ちます。 校医による健康診断は、夏休み以降の予定です。 【昇降口にミスト設置】 6月末、2カ所ある昇降口にそれぞれ、暑さ対策のミストを設置しました。 放課後、職員で設置しました。 昼休みや体育の授業後には霧状の水を噴射し、活動後、子供たちに少しでも涼しさを感じてほしいという職員の思いがこもっています。 子供たちは大喜びです。 【1年生学校探検】 6月18日(木)、1年生が学校探検を行いました。 昨年までは2年生が1年生の手を引いて校内を案内してくれたのですが、今年は新型コロナウイルスの影響でそれがかなわなかったため、1年生だけの学校探検でした。 1年生は、初めて入る部屋に興味津々でした。 【花植】 6月の第3週、学年ごとに職員室前の花壇に花を植えました。 さびしかった花壇が一気に華やかになりました。 花が咲いていると、明るい気分になりますね。 【放送集会】 6月15日(月)通常登校が始まって2週間がたち、校長講話を放送集会で行いました。 まだ全校生が集まる集会を実施できないので、子供たちは教室で話を聞きました。 「どんなことでも一生懸命にやること」、「得意なことを見つけること」、「県民の日について」話をしました。 どの学級でも背筋をのばし、真剣に話を聞いてくれました。 メモを取りながら聞く学年も。 【1年生も給食の配膳開始】 6月の2週目、1年生も給食ワゴンを運び配膳を始めました。 白衣の共用を避けるため、当番の子は、エプロンを持参して当番をしています。 【通常登校開始後の日常】 校庭では体を動かし遊ぶ姿が見られます。 子供たちへの意識付けや全員が外に出ていないこともあり、密集状態は避けられています。 外から帰ったら必ず手洗いです。 次の子は、停止線で待ちます。 給食の配膳は、最初の1週間、全学級に2名配置した教職員が行っています。 【安全確保のため消毒】 分散登校の時から児童の下校後に消毒を行っていますが、通常登校となってもも、下校後に教室やトイレの出入り口やスイッチ、蛇口等、多くの児童が触れる場所を消毒しています。 当面の間、継続していきます。 〈保健室の出入り口〉 〈水道の蛇口〉 〈教室の出入り口〉 〈教室の窓のさんと鍵〉 【簡易給食】 学校が再開した今週1週間は、簡易給食を食べてから下校します。 昨日は「焼きおにぎり」、今日は「ハンバーガー」でした。 無言でおいしそうに食べていました。 【通常登校開始】 6月1日より、通常登校に戻りました。 本校本来の姿に戻る第一歩ですが、気を緩めず、できる限り感染防止に務めながら各活動を進めてまいります。 〈校庭もにぎやかに〉 〈登校後は手指消毒〉 〈立腰で気持ちを落ち着けて〉 〈全員そろって授業スタート〉 〈全員前向きで無言の簡易給食〉 〈雨の中の一斉下校〉 【分散登校終了】 分散登校が5月29日(金)で終了しました。 分散であっても、学習面の遅れを取り戻すべく、授業をスタートさせました。 職員は同じ授業を2回ずつ行い、グルーによって差が出ないよう配慮しました。 6月1日からは全員登校となります。 〈指導員さんに見守られて〉 〈1列で間隔を開けて〉 〈授業の様子〉 〈観察は外で離れて〉 〈前後左右の間隔をあけて集合〉 【家庭学習に関するホームページ等紹介】 臨時休業中の家庭学習へのご協力、ありがとうございます。 学校からの課題の他に取り組める、いくつかの学習サイトをお知らせのコーナーに掲載しました。 ご活用ください。 5月2日(土)〜6日(水)、5月20日(水)〜27日(水)に栃木テレビにおいて放送された学習サポート講座も、お知らせのコーナーから見られます。 【休業中の登校日:分散登校】 5月14日(木)と15日(金)の二日間、分散登校を行いました。 1週間ぶりの登校で子どもたちの表情は笑顔の子が多かったです。 教室は登校児童数が少ないため、3蜜を避けて指導することができました。 児童数が多い学級でも社会的距離(1m以上)を確保して指導を行いました。 一斉下校も間隔をあけて整列。 【通学路点検】 5月8日(金)の児童下校に合わせて教職員が一緒に歩き、登下校班指導と通学路の点検を行いました。 保護者の皆様や地域の皆様からも、危険と感じる場所が発見された場合には、ご連絡いただけると幸いです。 【5月7日・8日子どもたち登校】 約1ヶ月ぶりに、子どもたちの元気な声が学校に帰ってきました。 二日間とも午前中のみの登校でしたが、子どもたちは久しぶりの学校を楽しんでいました。 手指の消毒や換気、机を可能な限り離すなど、できるだけの対策をして子どもたちを迎えました。 下校後は、教職員で机や階段手すり、教室出入り口等を消毒し翌日に備えました。 【4月30日 先生からのメッセージ】 「お知らせ」のコーナーの、先生方からのメッセージを更新しました。 ぜひ、子どもたちに見せてあげてください。 【第1回学校運営協議会】 4月28日(火)に、今年度第1回の学校運営協議会を開催いたしました。 学校経営について、委員からは読書活動の推進や特別支援教育の推進等についての質問が出されました。 現状や取組の説明により、今年度の学校経営方針をご承認いただきました。 また、新型コロナウイルス感染症防止のための行事等の中止や延期につきましても、ご了解いただきました。 【入学式】 4月9日(水)、 入学式を行いました。 コロナウイルス感染拡大防止のため、在校生は参加させず、新入生とその保護者のみの縮小した形で実施しましたが、在校生からのメッセージは撮影した映像を流すなど、気持ちを込めて58名の入学をお祝いしました。 楽しい学校生活を送ってほしいと思います。 【新型コロナウイルス感染拡大に伴う臨時休業について】 市教育委員会および校長会の決定により、臨時休業を実施します。 今後の予定は以下の通りです。 *毎日の検温と記録をお願いします。 臨時休業により急な対応をお願いすることになりましたが、状況をご理解いただき、子どもたち、そしてご家族の安全確保のため、ご協力くださるようお願いいたします。

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薬師寺・東塔

薬師寺

薬師寺 「薬師寺」は「興福寺」と並んで「法相宗」の大本山です。 薬師寺の所在地の「西ノ京」とは、平城京を朱雀大路で東西に分けられた西の半分で 右京全体を指しましたが、現在では薬師寺、唐招提寺のある界隈だけを指します。 西 ノ京で創建当初の面影を留めた建造物は薬師寺と唐招提寺に限られましたからこのよ うな呼び方になったのでしょうか。 近鉄「西ノ京駅」は薬師寺の旧境内にありますので 近鉄線は薬師寺の旧境内を走っております。 余談ですが平城京の右京 西ノ京 には高級役人が住まいし、左京 東ノ京 には下級 役人、一般庶民が住んでおりました。 しかし、高級役人が職務上重大なミスを起こし て降格になりましたら左京に移住させられることから出た言葉が「左遷」です。 時代が 変わると左大臣の方が右大臣より格が上というように左上位となりますが左遷と言う 言葉のみが残ったようであります。 後に、 薬師寺の建立を発願されました「大海人皇子 おおあまのみこ・天武天皇 」は 「壬申の乱」が起こる契機となった皇位継承争いで、身辺に危機が及ぶのを避けるため 自分には皇位に就く意思がないことを示さなければならず、そこで急遽出家して命か らがら吉野に逃げ延びられたのであります。 その大海人皇子が反旗を翻して天智朝と 戦い、壬申の乱で勝利を収められた結果、相手側の天智朝に服していた有力豪族が、 天智朝の敗北により没落しました。 このことから、天武天皇は誰一人として気を使う 人物がいなくなりましたので天皇の思うままの政治が遂行できました。 それまで、 「大王」だったのが初めて天皇の称号を使われたのが天武天皇で、天皇の政治は高級役 人を皇族で固めた皇親政治となり天皇を中心とした中央集権国家は磐石なものとなり ました。 薬師寺建立の経緯は、壬申の乱での戦いで生死をかけた苦労をともにした「皇后 後 の持統天皇 」が病気になられたので天武天皇は何にも代えがたい皇后の病気平癒を祈 願するため「薬師如来」の造像を発願されたのであります。 その尊像を安置するための 寺院が藤原京に建立されました「薬師寺」であります。 実力の備わった天武天皇ですか ら官寺に相応しい雄大豪壮な伽藍だったことでしょう。 ところが、天武天皇は薬師寺 の完成を見ることなく崩御されましたが既に、病気から回復されていました持統天皇、 続いて孫の文武天皇によって薬師寺が完成されました。 しかし、建立後たった12年 で平城京遷都となり新たに平城京に薬師寺が建立されることになり藤原京の薬師寺は 「本 もと 薬師寺」と寺名変更になりました。 現在の薬師寺を平城薬師寺、本薬師寺を 藤原薬師寺と呼び区別する場合もありますが使われることは少ないです。 天武天皇は出家した後に天皇になられたという珍しい経歴の持ち主であり、伊勢神 宮の式年遷宮をお決めになっただけでなく、貴族の屋敷には仏像とお経を用意させる など、神仏を敬うことを奨励されました。 先月 2006. 08 には天武天皇が即位されました「飛鳥清御原宮 あすかのきよみは らのみや 」で内安殿とみられる二つめの正殿が発見されたと大きく報じられ天武朝の 実力が証明されました。 その現場説明に多くの人が集まり発掘現場に到着するまで一 時間を要したという盛況でした。 「宮」は天皇一代毎に変わるのが原則ですが飛鳥清御 原宮は天武・持統天皇の二代にわたって使用されましたし「檜隈大内陵 ひのくまおお うちノみささぎ 」といわれる天武・持統天皇陵は夫婦合葬墓であります。 妬ましいほ どご夫婦は 比翼の鳥 ひよくのとり そのもの だったようですね。 従来の慣習では都が移るに従って寺院も移転するのでありますがその場合、寺院造 営には伽藍配置、建築、仏像などはその時代様式に倣うのが慣行であります。 しかし、 薬師寺は本薬師寺の様式を踏襲して着工されると言う前例のないことが起こりました。 天平時代、寺院の建立形式は「塔」を回廊外に建てられますがその原則に反して薬師寺 は藤原京に建てられた本薬師寺の白鳳建築様式を踏襲して塔は回廊内に建立されたの であります。 平城京の薬師寺は718年から建立が開始されたようであります。 薬師寺は1972年 金堂の基礎工事が始まり、現在 2006. 03 まだ再建工事がつづいて おり今は回廊の継続工事中です。 古刹寺院でこれほど変化を遂げた寺院は他に例を見 ないでしょう。 「金堂」、「西塔」、「中門」、「東僧坊」、「西僧坊」、 「回廊 南側半分 」、 「大講堂」などが再建されさらには新設の「玄奘三蔵院伽藍」の建立があります。 今回、驚きましたことは薬師寺の建立総責任者はインドの事情によく精通した方か インド人そのものではないかと思われるくらいインドの様式に基づいて造営されてい たからです。 薬師寺は古代のロマンに彩られた興味が尽きない寺院でありますゆえ異 国的な雰囲気にゆったりとひたって幸せの時間をお過ごしください。 「金堂」は昭和51年再建されました。 正面の長さは26. 6m、奥行の長さは15. 5m、 高さは20. 4mという20世紀最大の建造物であります。 一見四重の建物のように見えますが、二重の建物で、上・下層とも 「 裳階 もこし 」 と言う庇状のものが設けられており二重二閣入母屋造であります。 我が国で考えられ た密教寺院の 「 多宝塔 」 も、一重塔に裳階が付いたものです。 薬師寺では「東・西塔」 「大講堂」の三棟が裳階付きという豪華さです。 創建当初の木造建築での再建を要望する寺側と人類全体の遺産と言うべき 「 本尊 薬師如来像 」 を守ることを主眼とした国側との妥協の建物です。 幾ら森林資源が豊かな我が国でも時代が下りますと巨木の入手は困難を極め、例え ば、 「 東大寺大仏殿 」 の建設用桧材の入手先はと言えば、創建時は奈良周辺で集めるこ とが出来ましたが、鎌倉、江戸の再建時は山口県、宮崎県、昭和の修築にいたっては 日本を離れて台湾で調達されました。 昭和の大型建築「薬師寺金堂」は、台湾からの輸入最後となる桧材で建立されました。 その金堂の「円柱」の製作には古代の手法が適用され、巨木を縦に4つ割にした四分の 一を使って加工されたものです。 このことからも一本の木材から四本の円柱が取れな ければならないという巨大木を必要としたのです。 その意味でも、金堂は昭和の最高 の木造建築で、もうこれだけの贅沢な造りの建築は不可能でありましょう。 その台湾も現在は桧材輸出禁止で、巨木を確保することは難しく「興福寺の中金堂」 はアフリカで調達された木材で現在再建工事中であります。 すなわち、巨木を必要と する大型の仏堂の建立は難しい時代を迎えたのであります。 裳階の中央を一段上げているのは「東大寺金堂」を倣ってとのことですが同じ形式が 「平等院の鳳凰堂」であります。 伽藍の中心に金堂があり中門から見通せ、塔より金堂が重要視された最初の伽藍と いえましょう。 これ以降は鎌倉時代までは本尊を祀る仏堂が伽藍の中心を占めていき ます。 昭和19年の地震被害の影響で雨の日の法要には、傘をさして行われたという 「 本金 堂 」 は 「 興福寺 」 に 「 仮金堂 」 として保存されております。 薬 師 如 来 坐 像 本尊の「薬師如来像」は我が国での 頂点に立つブロンズ像どころか、世 界でも有数のブロンズ像といえる見 事な出来栄えで初めて拝観された方 は際立った優美な姿に圧倒され歓声 を挙げられることでしょう。 薬師如来像は静の姿勢で、脇侍 わきじ の 「 日光菩薩像 」 、「 月光菩薩像 」 は動の姿勢です。 現世利益の仏・薬師如来が本尊と なった最初の寺院ではないでしょう か。 薬師如来は当時、病気を治す神 様が不在だっただけに大変持て囃さ れたことでしょう。 古代寺院で病気 平癒を願って創建されたといえば 「法隆寺」「興福寺」「新薬師寺」があり ます。 天平時代の終わり頃には厳しい男 性的な表情となりますが、本尊は柔 和な顔立ちだけに気軽に 「 病気平癒 」 が祈願できます。 薬師如来は「東方浄瑠璃世界」の教主で民間芸能の「浄瑠璃」は薬師如来に起因するもの です。 蝋人形のように像の表面が滑らかに仕上げられているのは、金メッキをするためで、 金メッキした像のみを金銅像 こんどうぞう と言います。 唐時代流行の丸顔で、創建時の「東大寺の大仏さん」もこのような丸顔だったことでし ょう。 眼は天平時代の特徴である上瞼がほぼ直線で下瞼が曲線となっており目頭で「蒙古襞 もうこへき 」を表しております。 蒙古襞については 「 」 をご参照く ださい。 首の三道は飛鳥時代の線彫りの表現から肉体の一部となる写実的な表現になっており ます。 左手の掌には見事な千輻輪相が鏨で細密な線彫が施されておりますのはまだその掌に 薬壷を置く習慣がなかったからでしょう。 もし、薬壷を置くのであれば薬壷で見えなく なる千輻輪相を刻む手間を掛けなかったことでしょう。 水鳥の水かきのような膜、「縵綱相」など経典に忠実に刻まれておりますのは本像と唐 招提寺の本尊以外には存在いたしません。 余談ですが縵綱相はインドでは石像が多くあ り石造の場合指が破損しやすいのでその補強のために残されたのが如来の特徴に組み入 れられたとのことです。 「裳懸座の台座」で、裳の裾を「台座」に垂らしたものを「裳懸座」といいます。 「法隆寺 本尊 」は 正面、左右の三方に裳が垂れておりますが 「 本尊 」 の裳は正面のみでこれはイン ドの古式に則っているのでしょう。 裳懸座は銅製であるのに柔らかい繊維製品の感じが よく出たリアルな表現となっております。 像が黒褐色しているのは素材の中に砒素が入っていたからと言われております。 銅の 錆といえば毒性の強い緑青ですが私の仕事上で問題になったのは瞬間湯沸かし器で、こ の湯沸し器には熱伝導のよい銅管が使われ熱効率を上げておりましたが銅から毒素の緑 青が出るので瞬間湯沸かし器で沸かしたお湯は飲料用として使ってはいけないので容器 などの洗い用に使われておりました。 ところが現在は緑青は無毒であることが証明され たとのことであります。 緑青が問題になったのはその昔、銅の素材に砒素を混ぜた材料 が使われていたからではないかということです。 銅に加えた砒素が問題なのに銅そのも のが疑われていたようであります。 それからすると、本尊薬師如来像の材質には砒素が 加えられていたので現在の色合いの烏銅となったのでしょう。 鋳造は土型で施工されたのにこれだけ見事な作品に仕上げられたことには驚きです。 機械工具が揃った現在でも同じ作品を造るのは並大抵ではないでしょう。 何もかも不足 する時代にこれだけの優作が出来たことは財政破綻を起こすほど官寺の建築、仏教美術 品を造ることに財力を注いだ結果といえましょう。 人体に薄絹を着せたような表現は、塑造か漆造ならこのような写実表現が可能ですが それを銅造でリアルに表現したところに凄さがあります。 蝋人形の素材である蝋で造像 されたといっても多くの方々は素直に信じることでしょう。 薬師如来像は金銅像の最後を飾る作品と言えるものでこれ以降は金銅像のめぼしいも のは造られておりません。 これほど素敵な金銅像はまたと造れないでしょう。 千輻輪相 中央部分 「手足千輻輪 しゅそくせんぷくりん 相」 とは手の掌や足の裏に千輻輪相 青矢印 千 本のスポーク状の車輪 という文様があるこ とです。 輪の外周には矢尻のような武器が千 個付いており、この武器で敵をなぎ倒します。 このことは煩悩を蹴散らして我々を仏教に帰 依させることです。 輻を千本刻むのは現実に は難しいので制作の際には省略されておりま す。 それでも手間が掛かりますので薬師寺本 尊以外は見当たりません。 吉祥相として指先には卍花文相、足裏には 宝瓶相のなどが表わされております。 薬師寺本尊には足紋と違った千輻輪相が手 の掌にも設けられております。 残念ながら足文も手文も高い位置にあるた め確認できません。 「 台座 」 には 色々な文様や四神、異人像が刻まれた見事な作品で、このようなユニー クな台座は薬師寺以外ではお目に掛かれないでしょう。 北側面は目の当たりに見える ように来迎壁が大きく開口されておりますのでじっくりとご覧ください。 見応えのあ る台座を見に来られただけでも薬師寺を訪れる価値が充分あります。 上框にギリシャの葡萄唐草文、周囲にはペルシャの蓮華文、中框にインドのヤクシ ャ像、下框には四方を鎮護する中国の四方神 東に青竜、南に朱雀、西に白虎、北に玄 武 で、ギリシャからペルシャ、インド、中国を経て薬師寺に到着、シルクロードの終 着地が 「 古都奈良 」 の証でしょう。 仏師はシルクロードを意識して造られた国際色豊かな表現の台座となっております。 四神が仏教に取り入れられることもないので当然、台座に表された遺例はほかにあ りません。 「日光菩薩像」、「月光菩薩像」は中尊側の足を立脚、外側の足は膝を心もち曲げて遊 脚としやや腰を捻っております。 「 頭 」 、 「 胸・腹 」 、 「 下半身 」 を交互に左右に振ってお りますが、これは古代インドの美術からきた 「 三曲法 」 です。 インド舞踊は手足を初め 身体を小刻みに動かすことのよって、物語を語るポーズがベースとなっており、この 様式がインドの仏像に採用されたのであります。 豊胸で肉付きの良い身体であるのに痩身像の如く腹を前に反らせており官能的な妖 しい魅力で心和ませることでしょう。 普通は「条帛 じょうはく 」で、条帛とは像の左肩から右脇腹にかけた斜めに垂らす 細長い布でのことですが、本像では 条帛ではなく「瓔珞 ようらく 」という 豪華な装身 具を二段に着ける珍しいものです。 図像では詳細は分かりづらいですが一つは 花文を つないだ意匠の瓔珞 緑矢印 で写真像のように条帛の如く左肩から右腰に掛けていま す。 もう一つは殆ど失われておりますが連珠文を二列につなげた瓔珞 黄色で強調 で、 肩から膝まで垂れ下がり正面で 曲線を描き 今度は反対の肩の方へと上がっていきます 。 とにかく我が国では見られぬ珍しい瓔珞ですが多分インドでは存在するのでしょう。 条帛は後述の「聖観音像」が着けております。 ただ、両像は素敵な胸飾りを着けており ますがインドの多くの観音像では聖観音像 のように首飾りと胸飾りの両方を着けてお りました。 裳裾の広がりは小さな動きの状態か一瞬の停止を表しているのでしょう。 伽藍内に「双塔」がある 形式を薬師寺式伽藍形式とか白鳳伽藍形式と言います。 釈迦入滅から時代を経ると、亡くなられた釈迦の舎利を崇拝することよりも生きた お姿を写した尊像の礼拝を願うようになったのはインドのみならず仏教国すべてであ りました。 当時の我が国でも火葬にふされましたのは持統天皇をはじめ極僅かの人で それ以外の皇族、貴族は土葬で現在のように遺骨を重んじることはなかったことでし ょう。 ですから、舎利崇拝より仏像崇拝の方が好まれたのは必然でありましょう。 しかし、金堂を伽藍の中心に設置し、 高い塔を南北の基本軸よりずらさなけれ ばなりませんが、塔を後の時代のように 装飾品扱いは出来ず塔の処遇に苦慮され たことでしょう。 そこへ韓国から本来一 塔でよいのに双塔形式の情報が持たされ ましたのでその情報に飛びついたのは当 然でありましょう。 この双塔形式は天平 時代には原則となりますが、天平時代の 双塔は伽藍から外に出されます。 双 塔 感恩寺・新羅 「 東塔 」「 西塔 」 は 「 三重塔 」 であるのに屋根が六つあり、一見六重塔に見えますが、 屋根の三つは 「 裳階 もこし 」 という庇状のことです。 各層に裳階があるのは東南ア ジアにも存在しません。 裳階が付いたお陰で安定感が出てまいりました。 木造塔は、間口が方三間のうち中央の間が両脇間より広いのが普通でありますが、 当塔は方三間が等間隔であります。 また、三層目は方二間という異例でありますが 同じ形式が 「 法隆寺五重塔 」 、 「 当麻寺三重塔 」 、 「 法起寺三重塔 」 にも見られます。 し かし、裳階の方では中央の間を脇間より広くしてあります。 東塔は730年建立で創建時唯一の遺構です。 しかも天平時代の官寺の重要な建物の 中でも唯一の遺構という貴重なものです。 高さは34. 1m、相輪の高さは10. 3mです。 西塔は昭和56年再建で、創建当初の双塔伽藍が完成しました。 天平時代の華麗 な彩色仕上げです。 心礎に設けられた舎利孔は西塔にありますが、本薬師寺では逆 で東塔の心礎に舎利孔が設けてあります。 今は礎石を残すのみとなりましたが「本薬 師寺址」には東塔の心礎が今も残っておりますので明日香をお訪ねの際には一度ご覧 ください。 非常に均整のとれた美しい両塔を「竜宮城」と称されましたことは納得出来、当時 の人が描いた乙姫様のいらっしゃる華麗な竜宮城とのイメージがあったのでしょう。 ただ、竜宮城は名の通り竜王の住まいです。 塔の上層屋根から上にある金属製 石製もあり の部分全体を相輪と呼びます。 飛鳥 時代は韓国から渡来した相輪担当の技術者の肩書きは露盤博士 だったことから当時、 相輪は露盤と呼ばれておりました。 博士の尊称が与えられるくらい露盤の製作は熟練 の技を要したからでありましょう。 博士の尊称を与えられたのは瓦工との二人だけで した。 現在では相輪を九輪とも言います。 相輪は下から箱型の基盤 基壇 、半円形の伏鉢 ふくはち 、四角形の平頭 びょう ず・へいとう 、傘蓋 さんがい 、竜舎、宝珠となっておりますが薬師寺塔以外は平 頭が受花となっております。 インドでは殆どが薬師寺塔と同じく平頭で薬師寺塔は古式で貴重な塔と言えます。 インドのストゥーパ 塔 の傘蓋は円錐形の傘状を象っており傘蓋といえるものであ りますが我が国のを見ると車輪形そのもので、ここから相輪、九輪という言葉が誕生 したのでしょう。 ですから我が国では傘蓋というには問題があり、傘蓋の部分を九輪 と呼べばわかりやすいのですが、当麻寺塔のように八輪という例外もあります。 輪とは最高権威の象徴であったのでしょう。 法輪、輪宝、転法輪、相輪、千輻輪な どがあり、しかも古代インドの武器が輪であったものが仏教に取り入れられておりま す。 その輪の思想が仏教が東漸する途中で相輪に取り入れられたのが我が国での九輪 相輪 となったのでしょうか。 舎利の安置場所は通例伏鉢内でありますが平頭内におさめられる場合もあったよう であります。 古代の我が国では舎利は塔の地下に安置されております。 インドの如来像には空中より散華供養する飛天が浮彫りされておりますのが通例で すがストゥーパでは見えませんでした。 仏像が造られるようになるとアジャンター石 窟の第26窟のようにストゥーパの正面に仏像が刻まれ、飛天 青矢印 が刻まれるよう になりました。 尊像、仏堂を飛天で供養されるのに塔はなぜ飛天で供養されなかった のか不思議なことです。 塔を供養するのには飛天が相応しいと思われます。 相輪が創 製された時、飛天で供養することをなぜ考えられなかったのでしょうか。 東塔はイン ドの古式に則っておりますが飛天を伏鉢ではなく空中からの散華供養を考え水煙に安 置されたのでしょう。 水煙に飛雲中に舞う天人の姿を配したのは東南アジアで唯一の遺構と言えるもので す。 貴重であり心に残る薫り高い飛天像でありますので双眼鏡持参でご覧ください。 アジャンター石窟の第26窟のストゥーパは平頭より上 緑線 は破損して小さな残骸 を残すのみとなっております。 聖 観 音 立 像 グプタ様式の如来像 「 観音 」 とは 「 観自在菩薩 」「 観世 音菩薩 」 のことで、最初は聖 しょ う 観音だけだったので単に観音 菩薩と呼ばれておりましたが「十 一面観音」、「千手観音」などの「変 化 へんげ 観音」が誕生しまして からそれらと区別するために「聖」 とか「正 しょう 」が頭に付けられ るようになりました。 「聖観音像」は本薬師寺の本尊の 脇侍ではなかったかといわれてお りますのは普通は右手を挙げて左 手を下げるのが逆の姿になってい るからです。 聖観音像は白鳳時代の幼児のよ うな姿ではなく若々しく凛々しい 好青年でさわやかな印象を受けま す。 制作時期は白鳳か天平か意見 の分かれるところでしょう。 髻の丈が通常より高くなっております。 三面宝冠でなければならないのに、頭の左右には唐草文で装飾されており、これは 簪 かんざし を表しているのでしょう。 正面には唐草文が施されていないのはそこに 観音のシンボルである阿弥陀の化仏が付けられていたからでしょう。 瓔珞は首飾り 緑矢印 と胸飾りの二段となっておりインドでは観音像の多くがその ようでありました。 条帛 紫矢印 が左肩から右腰に掛けて掛かっております。 天衣は鰭状 青矢印 に広がっており、この表現方法は扁平像などで用いる正面鑑賞 性であります。 正面鑑賞性とはいえ本像の側面はグラマーな丸彫りとなっております のと、左右対称を重んじて写実性から外れております。 天衣は白鳳時代から二段掛けであるのに珍しい三段掛け 白数字 です。 「 」 をご参照ください。 裳の裾を高くたくし上げ足首を見せているのも写真のグプタ時代のマトラー仏像の 影響でありましょう。 瓔珞 ようらく が膝から膝へ渡る際出来る僅かな隙間までが表現されていると言う 素晴らしい鋳造技術で、鋳造し難い純銅の時代にもかかわらずやりとげた技量には驚 かされます。 扉形式で両開きのことを「観音開き」と言いますが、これは 「 両開きの厨子 」 に安置さ れた仏像が聖観音、変化観音が多かったためです。 もし 「 文殊菩薩 」 が多かったら文殊 開きとなっていたことでしょう。 聖観音像は太平洋戦争時代には鉄砲の弾になりかけたそうですが、幸いなことに間 もなく終戦となり無事だったとのことです。 台座は八角框座で華麗な傑作です。 取り入れたといわれております。 しかし、現実のガンジス河の沐浴では写真のように 厚着のためぴったりと肌に密着とはいかず美しい足の曲線にはお目にかかれませんで した。 涼しい乾季だったから厚着されていたのでしょうか。 静かに流れるガンジス河の早朝は、洗濯する人、泳ぐ人、頭まで水に浸かり沐浴す る人、口をすすぐ人様々の風景です。 お世辞にも澄んだ水とはいえないですが敬虔な 信者にとっては霊水なのでしょう。 沐浴で心身の汚れを洗い落として素晴らしい朝日 の陽光に映えるガンジス河に向かって安らかな祈りを捧げると一層厳かな気分になら れることでしょう。 早朝のためか真摯にお祈りを捧げる人々よりボートに乗って沐浴を見学する者の方 が多いように思えました。 仏 足 石 「仏足石」は釈尊が初説法 を行われた「鹿野苑 ろくや おん ・サルナート」にあり ました原本を唐人が写した のを我が国の黄書本実 き ふみのほんじつ が写し、 さらに絵師越田安万 こし だのますまろ と石手某が 写し彫ったのがこの作品で す。 仏足石では我が国唯一の 国宝と言う貴重な文化財です。 正面の高さ 69cm 上面の奥行 74. 5cm 横幅 108cmもあり結構大きな角礫岩で仏足 の大きさは右足は47. 7cm 左足は48. 8cmであります。 足跡文の周辺には花文が散りばめているのは散華供養のためでしょう。 中央の千輻 輪相をはじめ多くの瑞祥文が刻まれております。 インドでは釈迦のシンボルとして数多く造られましたが 我が国では仏足石そのもの が珍しく国宝指定の仏足石です。 大講堂の後堂に安置されておりますので見落とさな いように注意してください。 仏足石の原本がありました鹿野苑とは鹿が生息したことに由来するものです。 天武天皇は熱心に仏教を信仰され,殺生戒を守って、動物の肉を食べることを禁じ られたのであります。 しかし なぜか 、当時は鹿と猪の肉は食してもよかったのですが 元明天皇時代には地上に生殖する動物はすべて駄目となります。 天武時代に食しても よかった 鹿が間もなく神の使いの神鹿 しんろく となるのですから運命とは不思議と 言うよりほかないですね。 鹿野苑の鹿 「奈良公園の鹿」は野生動物であり ながら人間に危害を加えるどころか 人によく慣れていて「鹿煎餅」を頂戴 と可愛らしくおじきの動作をいたし ます。 奈良公園の鹿は放し飼いです が「鹿野苑の鹿」は菱形金網に囲まれ た地域で飼われております。 しかし、 野生動物とはいえ性格は大人しいよ うに見えました。 私が近づくと金網 のところまで来て餌が貰えるのを待 っておりました。 鹿の撮影には金網 が邪魔になりますので餌の売人に金 網の向こうに投げてもらい撮影いたしました。 角切りがないのか大きな立派な角を持 っております。 鹿の数は奈良公園の数に比べるとずっと少なく見渡した範囲で数頭で した。

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