マルヌ の 戦い。 楽天ブックス: マルヌの会戦

ベルダンの戦い(べるだんのたたかい)とは

マルヌ の 戦い

この記事の目次• 第一次世界大戦の主要な戦い 第一次世界大戦の年表をご覧になりたい方はをクリックしてください。 ドイツ軍のベルギー侵攻(1914年8月2日~) シェリーフェン・プラン 西部戦線におけるドイツ軍の対フランス侵攻作戦計画 に基づいて、ドイツは8月2日、ベルギーに対しドイツ軍の通過を要求、拒否されると4日に侵入を開始しました。 中立国ベルギーが、侵犯されたことを理由にイギリスは参戦しました。 これは、ロンドン条約 1839年にベルギーの永世中立国を認めた条約 に沿っての行動だと、イギリスはしています。 ドイツ軍に対し、ベルギーは予想に反して激しく抵抗しましたが、ドイツ軍は6日にリエージュを包囲して、列車輸送式の大砲で大量の砲撃を加え、さらには飛行船ツェッペリン号による空爆を加えます。 大量の砲撃と空爆という 近代戦がリエージュ攻撃から始まったといわれています。 この戦いで、小国ベルギーの陸軍は勇敢に抵抗しましたが、ドイツ軍の予定表を2日遅らせたのみにとどまりました。 またリエージュの戦いはエーリヒ・ルーデンドルフが最初に名声を得た戦いでもあります。 西部戦線(1914年8月~) 西部戦線とは、シェリーフェン・プランに基づいて実行された、対フランス戦の攻防です。 このドイツ軍対フランス軍の戦いが、 世界大戦への事実上の幕開けだといえます。 なぜならこの当時は、誰も世界大戦に発展するなど、考えもしなかった為で、まさか国力をすべてつぎ込んでいく総力戦になるなど、思ってもなかったことでしょう。 この戦いは、 計画では6週間でしたが、ドイツ政府が休戦協定に調印する1918年の11月まで続きます 4年以上。 第一次世界大戦が勃発すると、ドイツ軍はすぐにベルギーとルクセンブルクに侵入し、さらにフランス北東部の工業地域を制圧しようと試みました。 緒戦の勝利により、パリ付近にまで攻め入ったドイツ軍部隊は 第一次マルヌの戦い 下記にて解説 における敗北により、フランス軍の殲滅に失敗し、戦線を後退・整理させます。 マルヌの戦い ドイツ軍は大軍をベルギーから侵入させて、パリの西方に向かわせました。 パリの西側を迂回する計画であったのですが、現地指揮官クルップ将軍は途中で、方向を転じパリの東側に向かいます 戦果を欲した将軍が進路を変更したのです。 この移動中のドイツ軍を、イギリスの偵察飛行機が発見し、フランス軍が急襲しました。 これにより、ドイツ軍は進撃を止めて、安全と部隊の再編 部隊の一部を東部戦線におくる のため後退しました。 こうして当初の計画では「6週間でパリを陥落させられる」というドイツの戦略はくずれてしまい、長期戦に突入することになります。 この後、スイスからイギリス海峡にわたる長い戦線が構築され、前線の両側ではお互いに、塹壕が掘り進められました。 この戦線は、第一次世界大戦のほとんどの期間を通じて、大きく変化することはありませんでした。 この戦いでは、お互いに防御側が有利であったため、攻撃に転じた側が大量の犠牲者をだしていました。 そのため、前線の位置に変化はなく膠着状態が続きました。 これを打破しようと、戦車・飛行機・毒ガスなどの新兵器を使いましたが、戦況に大きな成果をもたらすことにはなりませんでした。 この戦いは「西部戦線異状なし」といった映画化もされて、第3回アカデミー賞を受賞しています。 東部戦線(1914年8月~) 東部戦線とは、中央ヨーロッパから、東部ヨーロッパにかけて構築された戦線をさしています。 西部戦線は塹壕戦で膠着したのですが、東部戦線の戦況は流動的なままでした。 緒戦でロシア軍は、オーストリア領ガリツィア・ロドメリア王国 東ガリツィア およびドイツ領東プロイセンへ進攻しましたが、東プロイセンでは タンネンベルクの戦い 下記にて解説 でドイツ軍に大敗してしまいます。 この敗北以降、ロシア軍が積極的な攻勢に出ることは少なくなり、ドイツ軍とオーストリア=ハンガリー帝国軍の優勢のまま戦線は長期化しました。 ロシア軍は、ブルシーロフ攻勢において、オーストリア=ハンガリー帝国軍を相手に勝利をおさめますが、他には目立った戦果は挙げることができず、軍の近代化という面で一歩先をいくドイツ軍に対し、次第におされていきます。 1917年、戦争による経済疲弊などで国民の不満は高まり、ついにロシア革命が起こります。 3月には皇帝ニコライ2世は退位し、10月になってボリシェヴィキ ウラジーミル・レーニンが率いた左派の一派 が政権を掌握する。 ボリシェヴィキ政府は即座に同盟国側との休戦交渉を開始しましたが、交渉が停滞しているうちに、反ボリシェヴィキのウクライナ人民共和国が、同盟国側についてしまいます。 これにより、同盟国側との戦争は再開され、ボリシェヴィキ政府は窮地に立たされました。 1918年3月に、ボリシェヴィキ政府と同盟国側との間で、同盟国側への広大な領土を割譲するという厳しい内容の、ブレスト・リトフスク条約が結ばれました。 これにより東部戦線は終結します。 タンネンベルクの戦い 1914年8月に、ロシア軍は、ドイツの予想を上回る速さで進撃をしていましたが、次第に補給と通信の不備が露呈してしまい、進撃が停滞してしまいました。 ドイツの戦線立て直しに派遣された、新司令官ヒンデンブルク大将とルーデンドルフ参謀長は、ロシア軍の無線を傍受し、その進路を知ることに成功します。 そして列車で大軍を移動させ、タンネンベルクのロシア軍を急襲して大勝利をおさめました。 このタンネンベルクの戦いでの、ロシア軍の敗北は、ツァーリ政府の威信を著しく傷つけ、ロシア革命の勃発のきっかけとなりました。 海の戦い 第一次世界大戦の、開戦前からヨーロッパでは、イギリスとドイツが、海軍の軍備増強に取り組んでいましたので、お互いに巨大艦隊を保有していました。 開戦当初、 イギリスが制海権を握り、ドイツ軍に対して海上封鎖をおこないます。 これにより、ドイツ軍はバルト海からでられない状態がつづきました。 しかし、ドイツ軍は、陸地での戦いが膠着状態におちいると、食糧を輸入に依存している、イギリスをたたくために、戦略的な海上決戦を挑みます。 1915年5月のユトランド沖海戦で、ドイツ艦隊は善戦し、イギリス艦隊により多い損害を与えましたが、海上封鎖網を打開するまでにはいたりませんでした。 そこで考えられたのが「 無制限潜水艦作戦 英仏によって実施された海上封鎖に対抗するために、イギリス周辺の海域を「戦争区域」とみなし、その区域内の敵商船は予告なしに、潜水艦が水雷攻撃をおこなう 」です。 この「無制限潜水艦作戦」は、イギリスに打撃を与えましたが、中立国の無防備な商船も攻撃 ルシタニア号事件 するので、国際世論で非難にさらされます。 さらに、アメリカに参戦のきっかけを、与えることになってしまいました。 そしてイギリスは「無制限潜水艦作戦」の対策として、ロイド・ジョージが考案した「 護送船団方式 コンボイ・システム 」が成功し、被害を軽減させています。 結局は、開戦後からドイツの新型艦の建造は大幅にペースダウンしていて、戦争後半になると続々と増強されていくイギリス海軍に比べ、明らかに劣勢となっていってました。 そのため、Uボートによる 無制限潜水艦作戦に頼らざるえなくなっていったのです。 その後、キール軍港での水兵の反乱がドイツ革命、大戦終結の引き金になっていきました。 第一次世界大戦の膠着の打開 開戦から1ヶ月のマルヌの戦い以降、短期決戦の思惑は崩れ去り、膠着状態の続く泥沼の展開となっていました。 しかし、それを打破する出来事が発生します。 アメリカの参戦 開戦時から、モンロー主義 孤立主義 にのっとり、中立を表明してきたウッドロウ・ウィルソンアメリカ大統領が「ルシタニア号事件」後の、世論の変化をくみ取り、参戦を表明し議会で承認されます。 ついに1917年4月6日、アメリカはドイツ 同盟国側 に宣戦布告しました。 このアメリカの参戦は、ドイツも無制限潜水艦作戦を再開した時点で、予想していたことでした。 ただ、ドイツが予想できなかったのは、アメリカの戦争準備が迅速におこなわれて、強力な装備に身を固めたアメリカ軍兵士たちが、イギリスが屈服するより前に、ヨーロッパ戦線に到着するという事態でした。 無制限潜水艦作戦によって補給を絶たれていたイギリスは、ドイツ軍首脳たちの計算では、6か月くらいで屈服するはずでした。 しかし、イギリスは大きな損害を出しながらも、ロイド・ジョージの命令した前述の「護送船団方式」によって封鎖に耐え抜いたのです。 やがて、次々と投入されるアメリカ軍兵士と、アメリカからの豊富な軍需物資の投入とが、ヨーロッパ戦線でのドイツの敗北を決定的なものとしました。 ロシア革命 2月革命 1917年3月に、ロシアで起こり、民衆蜂起によってロマノフ朝を倒した革命です。 第一次世界大戦に参戦したロシアは、ドイツ・オーストリア軍に押され、国土の多くを占領されてしまいました。 そして戦争は、国内の食糧・燃料の不足、物価騰貴をもたらし、国民の生活を急激に悪化させていきました。 特に人口の多い首都ペトログラードでは問題が深刻で、1916年頃から盛んにストライキが起こっていました。 4月テーゼ 1917年4月に、ロシア革命の中で、ヴォリシェヴィキ指導者レーニンが示した革命指針です。 「すべての権力をソヴィエトへ」と主張しました。 亡命先のスイスから、列車でペテログラードに帰ったレーニンは、すぐに「4月テーゼ」として知られる「現下の革命におけるプロレタリアートの任務」とう論文を発表し、ボリシェヴィキの運動方針を示しました。 7月暴動 1917年7月に、社会革命党 エスエル 右派のケレンスキーが臨時政府の首相となります。 そして、第一次世界大戦参戦を継続し、ドイツにたいする攻勢を強めると、国内の労働者は反発してストライキを決行しました。 7月4日にはボリシェヴィキが指導して、首都ペトログラードで50万人のデモが決行されると、臨時政府はデモ隊に発砲をして弾圧し、レーニンをドイツのスパイとして告発しました。 レーニンはしかたなくフィンランドに逃れましたが、ドイツに対する軍事攻勢は失敗し、9月になると臨時政府の総司令官コルニーロフ将軍が、戦争の継続を主張して反乱を起こし、革命は危機に陥ります。 この間、レーニンは亡命地のフィンランドで「国家と革命」を書いて、議会政治を否定し、ボリシェヴィキ独裁政権を樹立するための理論化を図りました。 10月革命 1917年11月、レーニンによって指導されたボリシェヴィキは、権力奪取を目指して武装蜂起し、ついに臨時政府を倒します。 ケレンスキーは女装して国外に逃亡し、10月革命に成功しました。 ただちに第2回全ロシア・ソビエト会議を開催して、ソビエトがすべての権力を掌握することを宣言します。 同時に「平和についての布告」で交戦国すべてに即時講和を呼びかけ、「土地についての布告」で土地公有化の実施を宣言、世界最初の労働者階級が権力を握る社会主義政権が誕生しました。 狭い意味ではこの十月革命をロシア革命という場合もあります。 この「平和についての布告」は連合国からはすべて無視されましたが、ドイツは好機と考えて、1918年3月、両者はブレスト・リトフスク条約を締結し、単独講和を成立させ、ソビエト・ロシアはポーランドの独立と、その他の大幅な領土縮小を認めました。 「第一次世界大戦」終結 ドイツ軍は、ロシアとの単独講和によって、東部戦線の兵力を西部へと振り向けましたが、1918年8月8日、北フランスのアミアン付近で、アメリカ軍が参戦した連合軍によって撃破されてしまいます。 そこからドイツ軍の後退が始まりました。 バルカン方面でも、ブルガリアが9月末に停戦に応じ、オーストリア軍はサロニカからの、連合軍の北上とイタリア軍の攻勢に対して戦意を喪失し、オスマン帝国軍もイギリスのパレスティナ進出と、アラブの反乱で苦しみ、10月にそれぞれ停戦に追いこまれてしまいました。 ドイツ革命 1918年11月3日、ドイツで無謀な出撃命令を拒否した、海軍兵士たちがキール軍港の水兵反乱を起こします。 それがきっかけとなり、各地で兵士・労働者が蜂起するドイツ革命が勃発して、皇帝ヴィルヘルム2世はオランダに亡命し、帝政が倒されました。 ドイツ共和国の臨時政府の実権を握った、社会民主党のエーベルトは、11月11日、フランスのコンピエーニュの森で連合国と休戦協定を結び、戦争を終わらせました。 ドイツでは、旧社会民主党左派の結成したドイツ共産党が1919年1月に蜂起し、一気に社会主義革命への転換を目指したが、臨時政府によって鎮圧されてしまい、2月に資本主義・議会主義を掲げるワイマール共和国が成立しました。 今回の記事はここまでです。 少し長くなってしまい、すいませんでした。 読んでくれた「あなた!」本当にありがとうございました。

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第一次世界大戦をわかりやすく簡単に解説

マルヌ の 戦い

単に マルヌ会戦とも呼ばれる。 この戦いによって、ドイツ軍のは挫折し、短期決戦から長期戦へと戦局は変わっていったことから マルヌの奇跡とも呼ばれている。 この戦いは歴史上著名でも何でもないが、もし勝っていたら短期決戦で終わっていた可能性が十分にあり、そういう意味では第一次世界大戦では重要な戦いである。 概要 [ ] 第一次世界大戦初期におけるドイツ・フランス主力の会戦(1914年9月6日-12日)で、これによってドイツ軍のフランス席巻計画は完全に失敗した。 他方面の動き [ ] ドイツ軍は大戦勃発とともにシュリーフェン計画を実行し、、ここを通過することで第1軍・第2軍・第3軍を北フランスへ侵入させることに成功した。 一方、フランス軍も戦前に立案されたプラン17に従って第1軍・第2軍が地方に配置され、第3軍はの森を通ってドイツ領に侵攻していた。 第5軍はを援護するため、フランスとベルギー・の国境近くに配置されていた。 第4軍は戦略予備とされたが、実質的に第3軍を補佐する位置にあった。 ドイツ軍のベルギー侵攻に伴ってフランスの各軍は進撃を開始した。 フランス第1軍・第2軍は、ドイツ第6軍()の防衛線に銃剣突撃を敢行したが、機関銃に薙ぎ倒される結果となった。 ドイツ第6軍が防衛線から出て逆襲に転じると、第2軍は敗走した。 第1軍は持ち堪えていたものの、8月20日にフランス参謀総長から、第1軍・第2軍に対して撤退命令が出された。 アルデンヌに向かったフランス第3軍・第4軍はドイツ軍の中央部を突破して左右両翼の連絡を断つことを目的としていた。 彼らが進撃を開始したのは8月21日であるが、相対するドイツ第4軍()、第5軍()はフランス軍に先立ち、8月19日に進撃を開始していた。 その為、フランス軍は奇襲をかけるつもりのところを逆に奇襲され、撤退する結果となった。 フランス第3軍、第4軍はフランス領内まで後退すると応急的な陣地を構築し、侵攻するドイツ軍に対して防御戦を行った。 シャルルロワの戦い [ ] フランス第5軍は、ドイツ軍と相対する前に「まで前進してベルギー軍を援護せよ」、「アルデンヌ方面に進出してフランス第3軍の側面を援護せよ」との両立が難しい命令をジョフルから受けており、第5軍司令官のシャルル・ランレザック将軍はこの実現に苦慮していた。 命令を実現するには、第5軍がそっくりもう一個必要だったからである。 結局、ランレザック将軍はアルデンヌ方面の援護をほぼ諦め、第5軍をナミュールの西方20kmにあるに布陣させた。 ベルギー軍はナミュールに布陣した第4師団を除き、の命令によりまで後退していた。 この為、軍のいなくなったは8月20日にドイツ軍に占領された。 また、この日ナミュールで持ち堪えていたベルギー第4師団に対し、ドイツ軍はとによる砲撃を加え始めた。 また、ドイツ第2軍はナミュールの攻防戦を無視する形で西に進撃し、8月22日、シャルルロワに布陣するフランス第5軍と衝突した。 フランス軍とドイツ軍は、銃剣突撃を砲撃で粉砕するということを互いに繰り返す消耗戦に陥ったが、ドイツ軍には第3軍が応援に駆け付け、フランス第5軍は劣勢になった。 8月23日になると、ランレザック将軍の元にベルギー第4師団は限界に達したためナミュールを放棄して撤退を開始した旨の報告が入った。 また、アルデンヌ方面でフランス軍が撃退されたとの報告も入り、第5軍の側面が脅かされつつあることが分かった。 この為、フランス第5軍はドイツ軍との正面戦闘を切り上げ、撤退に入る。 前触れ [ ] フランス第5軍はシャルルロワから撤退を開始し、フランス領内にまで後退していた。 これにはイギリス遠征軍も付き添う形となった。 彼らの後ろには戦略級の予備部隊が無く、他方面からの即座の増援も難しかった。 ジョフルは第5軍に対し、マルヌ川南方に布陣してドイツ軍を迎撃するように命令を出した。 この為、フランス第5軍とイギリス遠征軍はマルヌ川を目指して南下を急いだ。 ドイツ第1軍・第2軍・第3軍はシュリーフェン計画に従ってフランス領内に侵攻したが、フランス第5軍は防御戦を行いつつ後退していたため、ほぼ目立った損害無く進撃を続けることができた。 しかし、パリ近郊に至ると最右翼となるドイツ第1軍()は長距離の徒歩行軍で疲弊していた。 その上、側面を援護する第2軍との間に30kmもの間隙が空いていた。 この間隙を放置ないし拡大させ、フランス軍に付け込まれることになれば第1軍・第2軍ともに側面を突かれる危険性があった。 この為、当初の計画ではパリの西側を通ってパリを包囲下に置くこととなっていたが、クルック将軍は間隙を埋め、かつマルヌ川南方に後退したフランス軍を捕捉することとした。 マルヌ会戦 [ ] 9月4日、ジョフルは将軍から全面攻撃へ移行するように進言を受けた。 ジョフルは後退させた第5軍に増援を付ける形での反攻作戦を考えていたため、ガリエニ将軍の進言を実現不可能なものと考えていた。 しかし、南下するドイツ軍に対し、待ち受ける連合国軍は東から第5軍・(BEF)・第6軍(パリ防衛軍)の順で並んでおり、第5軍と第6軍でドイツ軍を挟撃、包囲しつつイギリス遠征軍がドイツ第1軍と第2軍の間隙を突けば、勝機はあると考えられた。 この為、ジョフルはイギリス遠征軍のフレンチ将軍と調整のため会談の場を設け、重要な役割をフレンチ将軍に託した。 反攻作戦開始は9月6日とされ、慌ただしく準備が進められていった。 ドイツ第1軍は前述の理由により、9月3日、これまでパリ方面に向けていた進撃方向を東に変え、パリの30kmほど東側を通ってマルヌ河畔に至った。 9月5日、マルヌ川の渡河を考えていたクルック将軍に、参謀総長から現在の線で停止し、防御を固めるように命令が入る。 クルック将軍は当初は渋ったものの、マルヌ川方面を守備する部隊からフランス軍出現との報を聞くに至り、渡河を諦めて防御を固める方針に切り替えた。 9月6日、反攻作戦に出たフランス軍とドイツ軍の間で激戦が展開され始めた(戦線は西方からパリ北方に至る約280km)。 ドイツ第1軍は東から来るフランス第5軍と西から来る第6軍の双方に対処しなければならなかった。 特に、クルック将軍はパリから防衛軍(フランス第6軍)が出てくるとは思わなかったため心理的奇襲を受けた。 しかし、クルック将軍はすぐに西方へ部隊を集中してフランス第6軍に対して反撃を開始し、一時的に押し戻すことに成功した。 だが、ガリエニ将軍の発案でパリ市の630台を兵員輸送の為に徴発し、フランス第6軍に予備部隊を送り込み続けた結果、フランス第6軍はドイツ軍の攻撃に耐え抜くことができた。 実際にタクシーで輸送された兵士は約4,000人と多くなかったが大衆に与えた影響は大きく、フランス国家団結の象徴となった。 また、ドイツ第1軍が西方に部隊を寄せた隙を突き、ドイツ第1軍と第2軍の間隙にイギリス海外派遣軍が侵入した。 この為、ドイツ第1軍はほぼ包囲されてしまう形となった。 ドイツ第2軍もまたフランス第5軍により押され始め、ドイツ第1軍の救援はできない状況だった。 計画の崩壊、部隊の危機的状況を見たドイツ参謀総長モルトケは、9月9日に全軍に撤退を命じた。 もっとも、ドイツ第1軍・第2軍は先立つ9月8日に撤退を開始していた。 一説によればドイツ第2軍が先んじて後退してしまった為、善戦していたドイツ第1軍もやむなく撤退せざるを得ない状況に置かれたという。 その後 [ ] ドイツ軍は損害を出しながらも9月11日にの線まで後退することに成功し、そこで塹壕陣地の構築を開始した。 シュリーフェン計画は失敗に終わり、ドイツ軍の勝利という形での戦争終結は遠のいた。 一方、ドイツ軍を撃退したフランス軍であったが、彼らの戦争計画であるプラン17もまた、シュリーフェン計画同様に失敗に終わっていた。 あらかじめ次善の策を用意していなかった両陣営は、泥沼のに突き進んでいくことになる。 関連項目 [ ]•

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第一次世界大戦

マルヌ の 戦い

第一次世界大戦が勃発した1914年について、は「クリンチ The Clinch」という表題を与え、は「大いなる幻影 The War of Illusions」という言葉で要約しています。 短期間で終わるはず、という幻影によってはじめられた戦争が、両軍クリンチとなって長期化していくことになりました。 この1914年の戦争の経過について、まずは、西部戦線の状況からです。 ドイツは、1914年8月1日にロシアに、3日にフランスに宣戦布告しました。 実際の戦闘は、8月1日、フランスへの侵攻のためのルクセンブルク侵入から開始されます。 シュリーフェン計画 Schlieffen Plan の発動です。 ここでは、ドイツのシュリーフェン計画の実行と失敗について、その経過の詳細を確認していきたいと思います。 シュリーフェン計画とモルトケによる改変 まずは、シュリーフェン計画とはどのような構想であったのか、1914年8月の実行にあたって、モルトケはそれをどう改編したか、という点から確認していきます。 以下は、リデル・ハート 『第一次世界大戦』からの要約です。 ドイツ軍の両面作戦対策 ドイツ軍とオーストリア軍の合計兵力をもってしてもフランス、ロシアの合計兵力にとうてい及ばないという問題。 しかし、ロシアが動員に時間を食い、最初の数週間には大した圧力になるまいという期待。 したがって、ナポレオン戦争時代以後、ドイツが常にとってきた作戦は、まずロシアの前進部隊を窮地に追い込んでおき、次いでフランスに素早い攻撃を仕掛けて撃破したのち、ロシア軍と本格的に対峙するというもの。 しかしこれには、フランス国境付近が侵入者に対して天然及び人工の障害を備えているという難問題。 主力はベルギー迂回で障害を回避、対仏・露には少数の師団 障害に対しては、ベルギー経由の広範な機動によってこれを迂回。 この計画は参謀総長だったフォン・シュリーフェン伯爵 Alfred von Schlieffen の立案により、1905年に練り上げられた。 ドイツ軍主力(53個師の大軍)を右翼に集結して大きく左旋回させ、一方最小限度の左翼軍(わずか8個師のみ)をフランス国境に配置。 フランス軍が微弱なドイツ軍左翼をライン川方向に押し戻せば戻すほど、ベルギー経由でフランス軍側面に対して敢行される攻勢はより容易になる。 ロシア軍を食い止めるために10個師団。 いまわのきわにシュリーフェンは、「必ず戦争になる。 ただ右翼を強化するように」。 モルトケによる改悪、右翼を強化せず、左翼を強化 シュリーフェンの後継者である小モルトケ Helmuth von Moltke は、前任者の持つ勇敢さに欠けていた。 その後新たに9個師団が投入できるようになったが、モルトケはそのうち8個師団を左翼に、残り1個師団だけを右翼に配備。 他にロシア前線からもう1個師団。 しかし、開戦後の東部戦線に2個軍団をフランス戦線から移動。 対抗するフランスは、悪名高い『第17計画』 第17計画 Plan XVII は、歴史的経験も、常識も無視したうえで、立案されたもの。 ドイツ軍兵力を過小評価、またドイツ側はアルデンヌ山岳地帯 Ardennes の困難なルートを通ってくれるはずと、都合よく予測。 第一、第二軍をロレーヌ Lorraine に投入、ザール地方 Saar に向けさせる、第3軍がメッツ Mets に面し、第5軍がアルデンヌ山岳地帯をにらみつけ、第4軍を中央部付近に戦略予備軍として温存。 第一次世界大戦のはるか前から、独仏ともそれぞれの作戦計画を持っていた、また、ドイツ軍側のシュリーフェン計画については、実行段階で、モルトケによる改悪がなされたといことがわかります。 開戦、すなわちモルトケによるシュリーフェン計画の発動 いよいよ開戦となって、シュリーフェン計画が発動されました。 1914年8月4日朝、ドイツ軍第一線部隊は侵攻を開始します。 フランスも第17計画を発動します。 再び、リデル・ハート前掲書からの要約です。 作戦実行のためのドイツの大輸送 8月6日に大展開が開始され、日に550本の列車がライン川を渡り、12日までには7個軍(150万)が進撃に備えていた。 開戦から2週間、ケルンのホーエンツォレルン橋を約10分ごとに1列車が通過した。 ドイツ軍のベルギー侵攻 リエージュ Liege の要塞、ドイツ軍の1個旅団は8月5日にいったんは阻止されたあと、砦のすき間をかいくぐって侵入し、同市を占領。 ルーデンドルフ Eric Ludendorff による発案。 砦自体は頑強に抵抗、ドイツ軍に重曲射砲 heavy howitzer の到着を待つことを余儀なくさせた。 ベルギー軍はアントワープ Antwerp の塹壕陣地まで退却。 当面の進路に障害がなくなったドイツ軍は、8月20日、ブリュッセル Brussels に侵入。 フランス軍のアルザス・ロレーヌへの侵攻 上部アルザス Alsace への1個軍団の前進、19日にライン川に到達。 しかし別の地域での敗戦が重圧となって、この企ては中止。 第1軍・第2軍が、8月14日、ロレーヌへの主要攻撃を開始したが、8月20日、モラーンジュ=サールブール Morhange-Sarrebourg の戦闘で大敗。 フランス軍は、物量が精神を圧倒できることを思い知らされた。 計画失敗の一原因、ドイツ軍左翼でのドイツ将軍たちの野心と嫉妬心 ドイツ軍左翼勢力、モルトケによる増強は、シュリーフェンが構想していた、負けると見せておびき寄せる防御戦には不必要なほど強力。 左翼の司令官たち、退却することによって栄光へのチャンスを失うことに我慢がならなかった。 こうして得られた戦果は、フランス軍を要塞化された防壁にまで後退させたことだけ。 フランス軍は抵抗力を回復強化、西側面へ部隊を移送し補強、この兵力再編成こそマルヌ川決戦で、大いなる戦果を挙げる要因になった。 かかる事態の責任は、ひとえに将軍たちの野心と嫉妬心にあった。 アルデンヌ方面でのフランスの敗退 フランス軍総司令部は、結局第17計画と同じ予測。 フランス軍の作戦の根本的欠陥は、ドイツ軍がフランス軍情報部の見積りの2倍の兵力を展開、その包囲範囲も予想を越えていたこと。 フランス軍側の騎兵による情報収集、「敵の前進を少しも探知せず」。 銃剣でしゃにむに戦う軍隊が、機関銃の火線になぎ倒された。 フランス軍にとって幸いなことに、敵はこの好機を充分に活用するだけの明確な状況判断ができず。 北西部でのドイツ軍右翼の進撃、仏・英軍の退却 北西部では、ジョッフル将軍 Joseph Jacques Joffre 配下のフランス第5軍(10個師団)と英国軍(4個師団)。 ドイツは、第1軍・第2軍が北から、第3軍が東から、その総数34個師団。 ドイツ軍の進撃に、フランス第5軍司令官ランルザック Charles Lanrezac はシャルルロワChareloi から、英国遠征軍総司令官ジョーン・フレンチ卿はモンス Mons から、8月24日に退却。 北西部でフランス・イギリス両軍が退却を開始する契機となったモンスの戦いでは、「英軍死傷者1600名。 仏軍、4日間に仏軍の損害は14万人」()という大きな損害が生じていたようです。 歩兵の戦闘では、ドイツ軍の機関銃が、いかに威力が大きかったかがよくわかります。 ドイツ軍右翼の大進撃、フランス・イギリス両軍の大退却 ドイツ軍右翼がいかに激しく進撃を続けたのかについては、バーバラ・タックマン 『八月の砲声』が詳しいので、以下は、同書からの要約です。 ドイツ軍のフランス領侵入 8月24日ついにフランス領土に侵入。 進軍する独軍の兵力はあまりにも強大、進撃を阻止することはできず。 25日フランス内閣総辞職、ガリエニ Gallieni はパリ防衛軍の司令官Military Governor of Paris に。 25日、英軍はル・カトー Le Cateau に退却。 8月26日、ル・カトーでの戦闘、兵員の損害8000余。 サン・カンタン St. Quentin、さらにノワヨン Noyon に退却。 8月28日、独軍はブリュッセルとパリの中間まで。 フランス政府はパリ離脱の議論 8月30日、大統領はガリエニに政府はパリを離れるべきか意見を求めた。 ガリエニは、これ以上パリにとどまるのは危険、と言明。 閣僚は、パリを防御すべきだということでは意見一致、移動すべきか留まるべきかについては分裂。 その日の午後、独軍の単葉機がはじめてパリを爆撃。 2人死亡、1人負傷。 それから敵機は毎日飛来、そのたびに2、3個の爆弾を投下。 ものすごい反響。 同日、英軍司令官フレンチ卿は英陸軍大臣キッチナー Earl Kitchener of Khartoum に報告書、仏軍は敗退したものと見られるので協力を中止し、本国へ引き揚げるつもりと言明。 8月31日にこの報告を読んだキッチナー、9月1日の朝パリ着、フレンチ卿らと英国大使館で会議、フレンチ指揮下の部隊は今後も仏軍の作戦行動に同調することを決定。 ドイツ軍はパリから50キロまで迫る 独軍は、9月1日にはパリから50キロの地点で、フランス第6軍および英軍の後衛部隊と戦闘。 50キロといえば、東京駅から成田空港までよりも少し短い距離です。 8月1日の開戦から1ヵ月で、フランス政府が首都離脱を考えるのも少しもおかしくないところまでドイツ軍が迫っていたことが、よくわかります。 ドイツ軍は、この段階ですでに、初歩的なものとは言いながら、飛行機を使用した爆撃を開始していた点、新しい試みに積極的な姿勢があった、と言えるように思います。 マルヌ川の戦いとドイツ軍の進軍停止 ここまでフランス・イギリス両軍は退却を続け、パリも危うい事態になってきたものの、フランス軍は戦線の立て直しを行います。 再び、リデル・ハート前掲書からの要約です。 フランス軍の再編成 フランス軍左翼のあわただしい退却で、総司令官ジョッフルはついにことの真相に眼をひらき、『第17計画』の完全な崩壊に気づいた。 彼はヴェルダン Verdun をかなめとして、自軍中央と左翼を旋回後退させ、他方では右翼のアルサスから兵力を引き抜き、左翼に新しい第6軍を編成し、退却部隊を攻撃に転じさせるきっかけを得ようと決心した。 マルヌ川での形勢の大転換 ドイツ軍の機構には、ちょっとした衝撃でもそれを故障へ追いやる可能性が存在。 この好機を感知したのは、退却継続を指令していたジョッフルではなく、パリ防衛軍司令官ガリエニ。 9月3日、ガリエニはドイツ軍の内側旋回の意味を察知し、第6軍に命じてドイツ軍の無防備な右側面を撃つ用意をさせ、翌日、総司令官ジョッフルの承認をとりつけた。 いったん納得するとジョッフルはてきぱきと指令、9月6日、全面攻勢を開始。 ドイツ軍は11日までに退却を開始。 こうして、開戦後約1ヵ月間続いたドイツ軍の攻勢の状況が、大きく転換することになりました。 「マルヌ川の戦い」 the Battle of the Marne では、英国海兵隊のベルギー上陸やら、ベルギー軍のアントワープ出撃やら、ロシア軍がイギリス経由で出撃してきたという「神話」やら、といった、実際には大きな影響力をもちえない、あるいはそもそも存在していない事柄が、憶測によって判断に影響を及ぼしたという点で、「心理的要因の占める部分の多い事態」であったようです。 その点はリデル・ハートの著作を読んでいただければと思います。 「ロシア軍の神話」は、タックマン 『八月の砲声』に詳しく書かれています。 リデル・ハートによるこの時期のフランス軍に対する評価 リデル・ハートは、ドイツ軍のシュリーフェン計画に、失敗したとはいえ割合高い評価を与えています。 その理由の一つとして、ドイツ軍の戦闘の相手であるフランス軍にはかなり低い評価しか与えられない、と彼が見ていたことが挙げられるようです。 以下は、リデル・ハートの、この時期のフランス軍に対する問題点の指摘です。 経験も常識も無視した、悪名高き第17計画 参謀総長ジョッフル将軍の権威を笠に着て、無制限攻撃を主張する連中がフランス軍機構を牛耳り、悪名高い『第17計画』を立案。 同計画は歴史的経験も、常識も無視。 西部戦線に投入されるドイツ軍兵力を下算。 ドイツ側、アルデンヌ山岳地帯経由の困難なルートを通ってくれるはずと都合よく予測。 第一、第二軍をロレーヌに投入、第三軍がメッツ、第五軍がアルデンヌ山岳地帯をにらみ、第四軍は中央部付近で戦略予備軍。 実際にフランス軍の攻勢は大失敗 フランス第一軍、第二軍の総勢19個師団が、8月14日、ロレーヌへの主要攻撃を開始、8月20日、モラーンジュ=サールブールの戦闘で大敗を喫した。 フランス軍は、情報収集でも欠陥 北西部方面。 フランス軍の作戦の根本的欠陥は、ドイツ軍がフランス軍情報部の見積りの二倍の兵力を展開させており、その包囲網も予測を超えていたこと。 フランス軍側は情報収集を主として10万人の騎兵に頼っていたが、この騎兵の大集団は、敵の前進を少しも探知せず、フランス軍はいたるところで不意打ちをくらった。 都合のよい予測に基づいた作戦立案、敵戦力の下算、敵情報の収集の欠陥といった、当時のフランス軍へのリデル・ハートの批判が、そのまま昭和前期の日本軍に当てはまることは、誠に驚きです。 フランス軍はこのとき、「物量は精神を圧倒できる」ことを学ばされたのに、日本軍はそれを無視しました。 昭和前期の日本軍は、第一次世界大戦開戦時のフランス軍の失敗の教訓から何も学んでいなかった、と言えるように思います。 リデル・ハートのこの時期のイギリス軍に対する評価 リデル・ハートは、この時期のイギリス軍のフレンチ卿についても、「英国軍はフランス軍よりおくれて退却を始めたが、そのスピードはより早く、その退却行程はより長かった。 主としてジョーン・フレンチ卿が突然心境の変化をきたしたため、かかる好ましくない事態になった」として、批判しています。 連合国に属したイギリス人のリデル・ハートが、敵ドイツ軍のシュリーフェン計画をそれなりに評価している一方、モルトケは失敗の責任者として厳しく批判、また味方フランス軍の第17計画と情報収集能力を酷評し、自国イギリスの司令官を皮肉っている点が、非常に面白いと感じられるところです。 客観的事実に立脚した判断を重んじて、メンツにはこだわらない、イギリス人の良い特性が出ているように思われます。 膠着・停滞・塹壕戦へ 9月はじめのマルヌ川の戦いで、ドイツ軍は足を止められました。 機動戦はここで終わり、これから塹壕戦が始まります。 1914年末に至るまでの西部戦線の経過を見ていきます。 再び、リデル・ハート『第一次世界大戦』からの要約です。 エーヌ川でのドイツ軍の防御 フランス軍によるドイツ軍の追撃は、エーヌ川で阻止。 9月17日ごろまでに、ドイツ軍は結束力を取り戻していた。 延翼競争・海への競争 唯一の打開策として、両陣営でお互いの布陣の一部または全部を包囲しようとする試み。 鉄道を利用して予備軍を前線の一地点から別の地点へ入れ替えること。 ドイツ軍のアントワープ攻略 9月14日、モルトケの後任、新参謀長ファルケンハイン Erich von Falkenhayn は、アントワープを降伏させようと決意。 9月28日、砲撃開始。 英国は援軍を送るが、アントワープは10月10日に降伏。 しかし、西部戦線におけるこの英国水陸両用部隊投入の最初で最後の努力は、ドイツ軍の海への進出にブレーキをかけ、英国軍主力を新しい左翼に移動させる時をかせいだ。 イープル防衛戦と塹壕戦の始まり イープル Ypres、10月31日と11月11日がこの戦闘にとっての大きな山場。 ドイツ軍にせめまくられ、未曾有の圧力を蒙りながらも、連合軍が何とか戦線を維持し得たのは、ひとえに英国軍の頑強な抵抗とフランス軍増援部隊の到着が危機一髪というところで間に合ったこと。 英国軍、長い訓練のたまものである小銃射撃の最高の水準を示した。 イープルの戦闘は心理的かつ軍事的にも画期的な大事件。 猛進撃して来たドイツ軍を撃退したことにより、塹壕の防壁がスイス国境から海岸線に至るまで強化されたことを意味する。 現代戦において防衛術が攻撃力に勝利、しかしその結果行詰り。 以後4年間の英仏同盟の軍事史は、この袋小路を力づくで突破するかそれとも行き当たりばったりに迂回路を見出すか、どちらかによってこの行詰りを打開しようとする試みの歴史。 上に挙げたイープル防衛戦、すなわち、第一次イープル戦については、やはりリデル・ハートがその内容を詳しく論評しています。 この戦闘では頭の中で仮想敵を攻撃していたとして、連合軍側の総司令官二人を批判する一方で、冷徹な現実に対して自分たちを守る戦いを行ったと、塹壕を守って実際に戦った連合軍の前線部隊を、評価しています。 目標を達成すればそれでOKというものではない、効率も大きな課題である、というカイゼン精神が、リデル・ハートにあふれていることがよくわかる論評です。 また、リデル・ハートは、小銃で1分間に『15発速射』の訓練を受けていた英国軍歩兵が、この戦いでその能力を発揮し、その銃撃の激しさにドイツ軍が、相手が「大量の機関銃」を備えていると誤解した、というエピソードにも触れています。 前線での歩兵の戦闘で機関銃がないなら、ある限定的な条件では機関銃に近い能力が発揮できる性能の小銃と、その火器の能力を発揮できるための訓練と、実際に発射できる豊かな弾薬の補給とが、きわめて重要であることを端的に物語っています。 昭和の日本陸軍が大いに参考にして、カイゼンの根拠とするべきエピソードであったように思われます。 こうした点の詳細については、リデル・ハートの著書をぜひご確認ください。 次は、シュリーフェン計画の失敗の原因について、あらためて確認したいと思います。

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