田畑政治 朝日新聞。 「いだてん」に堂々と出る企業名「朝日新聞」。特定企業名を使っていいのかNHKに聞いてみた。(木俣冬)

田畑政治(たばた まさじ) 偉大なる「ガキ大将」

田畑政治 朝日新聞

経歴 [ ] 幼少期から学生時代 [ ] 緒方姓は簗瀬村出身の祖父・がでを開くのの血筋を引くへ入門して、洪庵と義兄弟の盟を結び、その姓を与えられたことにはじまる。 書記官・の三男として山形県旅籠町に生まれ、4歳の時、父の書記官への転任で福岡県に移る。 父はによって福岡県書記官を退官させられた後、頭取を務めた。 父は退官させられたことが腹に据えかね、子供たちに「お前らは一生役人になるな」と言ったという。 福岡附属小学校からに進学。 緒方は小学校から中学校を通じて、無欠席・無遅刻・無早退を通した。 修猷館の1年上級に、同期に、がいる。 12歳でに入門してを習い始め、修猷館時代にとなり、既に剣道の達人の域に達した。 終生交友を保った斎村五郎は「あの人が剣道一本に精進していたら、ぼくなどよりはるかに強くなっていたろう」が口癖だったという。 博多銘菓鶏卵そうめんが大好物で鶏卵素麺で巣を模した鶴の子を愛していた。 修猷館卒業後、中国貿易を志してに進学する が、同学校の専攻部廃止の令に反対し学生総退学決議を行ったのリーダ-として責任をとりらとともに退学。 のちにとが不得手で、退学したと述懐している。 中野正剛に誘われ、申酉事件を支持して東京高商退学生受け入れを表明していたの政治経済科に編入し、政治結社の最高実力者・ 、さらに頭山を介して、、らの門に出入りした。 朝日新聞社での活躍 [ ] 若手記者時代 [ ] (明治44年)7月に早稲田大学専門部を卒業 後、やはり中野正剛に誘われ、同年11月社に入社して率いる大阪通信部員(勤務)となる。 新人記者でありながら、学生時代から出入りしていた・から「大正」の年号をスクープした。 当時の朝日新聞社内において、・派と・派との間で激しかった派閥対立で、弓削田は上野・西村派に属し、弓削田が村山と対立して退社すると、緒方は(5年)12月、外勤を外され整理課員に左遷された。 だがで村山・鳥居派が退陣し、上野・西村派が新聞編集の中枢に返り咲くと、同派の客員、の下で30歳で大阪朝日新聞社論説班の幹事に抜擢されて論説班を切り盛りした。 この時期、緒方は特派員から大阪朝日新聞社社会部員に呼ばれたと同宿し、友情を温めた。 しかし翌(大正8年)7月に村山が朝日新聞社を化して社長に復帰する際、実質的な大阪朝日新聞社編集局長だった西村天囚が村山の怒りを買って退社し、同年末から翌(大正9年)年明けにかけて上野理一、本多精一が相次いで没すると、上野派と見られて村山によく思われていない緒方は社に居辛くなり、退社を決意して、「御三家」の1人の玄洋社員・(安川第五郎の父)の出資でへ私費留学に出た。 しかし緒方が経由でへ行く途中、特派員として赴任していた美土路昌一が緒方から退社の意思を聞かされ、美土路は(大正10年)7月に社通信部長として帰国した後、朝日首脳陣に緒方慰留を働きかけ、取材の記者団に参加させた。 「緒方筆政」時代 [ ] 緒方は(大正11年)7月に帰国すると朝日新聞社幹部に温かく迎えられ、大阪朝日新聞社東京通信部長に就任。 以降、(大正12年)4月に東京朝日新聞社整理部長、10月に長、(大正13年)12月に支那部長兼務となり、(大正14年)2月、37歳で東京朝日新聞社編集局長兼政治部長兼支那部長と出世街道を走り、(昭和3年)5月に、村山龍平没後の制採用で(昭和9年)4月に東京朝日新聞社主筆、5月に。 そして(昭和11年)のまでは副社長のが東京朝日新聞社の責任者だったが、下村が組閣に際して退社したため(として入閣しようとしたが、が拒否)、同年4月、緒方が後任の代表者となった。 さらに二・二六事件後に緒方の構想による筆政一元化で同年5月に朝日新聞社主筆、となった(専務取締役は8月に辞任)。 1940年(昭和15年)8月には編集総長を置いて美土路昌一をこれに当てて東京本社、大阪本社、中部本社(現名古屋本社)、西部本社の4社編集局を統括させ、編集会議を設置して自ら議長となり、討議の上、社論を決め、全責任を主筆が負うことにした。 緒方は外部に対して朝日を代表する者と見られ、一切の責任を負う立場になった。 しかし同年5月に社長に就任した村山家の2代目・は、主筆の緒方が社長を凌ぐ実力・声望を持ち、多くの政府機関諮問委員を務め、自分には何も回ってこないことを快く思っていなかった。 また緒方への権力集中は、朝日新聞社内における反緒方派の台頭を促した。 その急先鋒が、東京本社派の緒方に対する大阪本社派の代表取締役専務取締役・西部本社代表のと、緒方の出身の政治部・経済部の「硬派」に対する社会部出身の「軟派」で、東京朝日新聞社編集総務から名古屋支社長兼編集局長に転出させられ、さらに傍系の出版局長にさせられたことで反緒方となった常務取締役・だった。 期の「緒方筆政」においては、緒方自身は寄りの立場だったが、自ら筆を執ることは少なく、社論は各論説委員の見識に任されていた。 しかし、以後は論説委員会議を開いて社論の統一に努めるようになり、親軍的な路線に転換して政党内閣を見限った。 それでも二・二六事件で、当時東京・にあった東京朝日新聞社は中尉率いる反乱軍に襲撃されるが、主筆の緒方は、これに悠々と応対し、反乱軍を引き上げさせた。 だが二・二六事件後、広田内閣支持を社の方針として決定すると、「緒方筆政」への抵抗を生む結果となり、論説委員のとが相次いで退社した。 論説委員室の不満は、反緒方派の勢力拡大に拍車をかけた。 のブレーン組織であるには、緒方の承認の下、前田多門、、、ら中堅・若手論説委員や記者が参加しており、緒方自身も期の新体制準備委員としてに積極的に関与した。 しかしその中から、緒方が可愛がっていた尾崎秀実が(昭和16年)10月にで逮捕されたことは、緒方派に大きな打撃を与えた。 鈴木文史郎は緒方の主筆辞任を要求したが、結局、緒方に対する責任追及は、主筆はそのままとし、(昭和17年)6月15日に重役としての編集責任担当者を解かれるにとどまった。 後任は原田譲二だった。 同日、前政治経済部長・が退社し、緒方派の取締役・東京本社編集局長・も同時に編集局長を解任された。 さらに緒方を窮地に追い込んだのは、修猷館時代からの親友だった中野正剛が(昭和18年)10月、首相・の意に沿った憲兵隊に身柄拘束され釈放後に自殺したことだった()。 中野の葬儀委員長を務めた緒方は、東條からの供花を拒否したため、緒方と東條の確執が大阪本社に誇大に伝えられた。 もともと緒方は、現場の新聞としては、学生時代から出入りしていた・三浦梧楼から「大正」の年号をスクープしたことがあるものの、他には「記者として別にどういう特ダネを書いたということもなく、とくに目立つという程のこともなかつた」。 しかし緒方は、郷里の関係から頭山満をはじめとする玄洋社の人々と交友が深く、右翼の内部事情まで考慮に入れたデリケートな右翼対策を行うことが出来た。 右翼対策は、新聞社にとっては「言論の自由」の発揚に伴う避けることのできない課題であり、右翼との折衝は、論説委員たちの「言論の自由」を保障する地位にあった緒方が、裏側で行わなければならない日常的な業務であった。 さらに満州事変期以降は、これに軍部との調整が加わった。 しかし軍に対して「顔のきく」存在であったがゆえに、朝日新聞社は緒方を社の代表者とすることに意味があったのに、肝心の緒方が、中野の事件をきっかけとしてと対立的な関係に陥ってしまったため、朝日は東條との関係を修復するため緒方以外の人物をこれに代える必要に迫られた。 ゾルゲ事件の少し前になる1941年9月17日、日本新聞連盟の理事会は政府側参与理事のより新聞社の資本統合を諮問された。 日本の新聞資本を1つにまとめ上げた共同會社案が検討されると会議は紛糾。 最終的に理事長のへ一任され、田中は共同會社設立を廃した統裁案を政府へ提出した。 新聞事業令 1942 につながる田中提案書は理事であった緒方の案を元にしていた。 吉積、と組んでいたは資本統合が難しいとみると緒方に代案を頼み、緒方は社内持ち株、株式の権利行使の制限というテクニカルな問題として自治統制案を起草した。 資本と経営の分離の持論は村山との関係が投影されていた。 ゾルゲ事件で追い詰められた緒方は、1943年(昭和18年)夏、営業部門を握って緒方とともに「編集の緒方、営業の石井」として「朝日の両翼」と呼ばれた代表取締役専務取締役・と一緒に、社長・村山長挙と会長・は社主に退き、緒方を社長とするよう村山社長に申し入れると、村山は原田、鈴木らと反撃に出て同年12月に主筆制を停止して緒方を主筆から解任、実権のない副社長に棚上げした。 村山は活動拠点を大阪から東京に移して経営を陣頭指揮し、緒方が務めていた政府機関の諮問委員など対外的な役職も全て取り上げ、自ら引き受けた。 緒方はに入閣するため、(昭和19年)7月に退社した。 政界進出と戦後政界への復帰 [ ] 朝日新聞社退社後、小磯内閣に兼総裁として入閣した 緒方は、一方で「言論暢達」政策を採り、他方で編集責任者に対して新聞社に許される自主性の大枠に関する内面指導を行った。 このような緒方の新聞指導は、情報局総裁たる緒方が戦局に関する十分な情報を入手していることを必要としたが、実際には陸軍の非協力などにより叶わなかった。 情報政策の担い手たる情報局が、何ら自前の情報収集源を持てなかったことは致命的だった。 また緒方は、の国民政府を相手とする和平工作(工作)を首相・とともに推進したが、外務大臣・、陸軍大臣・、海軍大臣・、さらにの反対に遭い失敗、となった。 その後もを挟んで(昭和20年)5月、の、8月にはの国務大臣兼兼情報局総裁に就任した。 敗戦処理の東久邇宮内閣は、緒方が内閣書記官長と内閣の大番頭を務め、文部大臣に元朝日新聞社論説委員・前田多門、に朝日新聞社論説委員・、緒方の秘書官に朝日新聞記者・、内閣に元朝日新聞記者・と、「朝日内閣」の観を呈した。 同年10月に内閣総辞職後、緒方は12月に容疑者指名、(昭和21年)8月に、(昭和22年)9月に戦犯容疑解除、(昭和26年)8月に追放解除となっている。 A級戦犯容疑者指名がなければ、敗戦で社内の緒方派と反緒方派の対立が再燃して自らも調停に乗り出し、村山長挙が辞任していた朝日新聞社の社長に就任するはずであった。 追放解除の翌年にあたる(昭和27年)10月、で中野正剛の地盤を引き継いでから出馬し、地元財界の支持を得て当選する。 で当選1回ながら、国務大臣兼内閣官房長官、さらに副総理に任命され、翌(昭和28年)5月成立のでも副総理に就任した。 この政界での急速な階梯昇段の要因には、の政治指南役だったの紹介や、吉田が重光葵の後任として東久邇宮内閣の外務大臣に就任したのが、近衛文麿と緒方の推薦によるものだったことなどが挙げられる。 なお、緒方は政界復帰前の1952年(昭和27年)4月、吉田茂、とともに、アメリカの、イギリスの、などを参考にして、内閣総理大臣官房に「調査室」という小さな情報機関を設立した。 これが現在のの源流である。 緒方は、これとは別に強力な情報機関、いわゆる日本版CIAを新設する構想を持っており、吉田内閣入閣でこの構想は一挙に表舞台に登場したが、国会や、世論の激しい批判を浴び、第5次吉田内閣の下で内調の拡充・強化を図るにとどまった。 しかし、このときの緒方の動きを、アメリカCIAは高く評価した。 吉田内閣退陣と緒方総裁選出 [ ] 吉田政権末期、やをめぐり吉田が法務大臣・に命じてを発動させ、側近の自由党幹事長・の逮捕を阻止したことなどにより、急速に政権は求心力を失っていった。 そうした中、(昭和29年)3月に緒方は保守合同を呼びかける「緒方構想」を発表した。 しかし「緒方構想」による新党推進勢力には、吉田退陣を前提とする吉田棚上げ論者が予想外に多数を占めたため、吉田が消極的であり、「緒方構想」は6月にいったん打ち切られた。 結局、12月にを中心とする反吉田勢力は、左右両派と連携し吉田案を提出する。 自由党は、総選挙による吉田内閣延命か、吉田内閣総辞職かで真っ二つに別れる。 吉田は政権維持に執念を燃やして解散を主張したが、緒方は内閣総辞職を主張し、1954年(昭和29年)朝、「もし総理が解散を強行すれば私は閣僚として解散書類に署名しません。 むしろ政界から引退します。 かっこうの悪いになりますよ」 と、自らの政治生命を賭けて吉田に直言した。 吉田は緒方を罷免してでも解散するつもりだったが、同日の閣議では文部大臣・、運輸大臣・石井光次郎、国務大臣・が総辞職を主張し、自由党幹部会は全員解散反対だったため 、吉田は解散を断念、内閣総辞職した。 翌の議員総会で自由党は吉田総裁の辞任を了承し、正式に後任総裁に緒方が選出され、石井光次郎を幹事長とした。 吉田内閣総辞職にともなう首班指名選挙で、緒方派の代議士らは、同じ早稲田大学出身の・、・らをはじめ、左右両派社会党議員に緒方への投票をはたらきかけたといわれるが、両派社会党は鳩山に投票し、が成立した。 保守合同と急逝 [ ] 翌(昭和30年)1月の「」によるで、鳩山の与党は185議席と単独過半数を得ることが出来ず、緒方の自由党は112議席だった。 この選挙結果は、与党民主党がなしで政局運営を行っていくことが困難であることを示していた。 そのため、自由党と民主党による保守合同論の気運が再び高まりを見せる中、緒方はこれを積極的に推進した。 新党総裁をめぐる難航した協議の結果、総裁代行委員による集団指導体制に落ち着いた。 、が結党され、緒方、鳩山の両党総裁と、、の両党の4人が総裁代行委員に就任した。 しかし、同年12月に全国各県で結成された党支部結成大会の巡回旅行で睡眠不足と過労が続き、途中でひいた風邪をこじらせてに帰京してからは静養につとめたが、翌(昭和31年)に心臓発作を起こした。 それでもに国会が再開されると登院、自民党の代議士会にも出席し、の福岡県人会にも出席したが、翌にの自宅で急性心臓衰弱のため急逝した。 67歳。 緒方の死去によって、に実施された自民党総裁公選では鳩山一郎が初代総裁に選出された。 総裁公選となれば、旧民主党が「反吉田」の寄り合い所帯のため緒方に流れる可能性のある票も少なくなかったのに対し、旧自由党の方が結束力が固く、緒方が初代自民党総裁に選出される可能性が高かった。 同年末に鳩山は、を花道として、後継者を指名せず退陣を表明し、、、石井光次郎(緒方派の継承者)による総裁公選が行われた。 緒方の急死がなければ、戦後政治史の歩みも大きく変わったと言われる所以である。 また後任の石橋が病気で短期で退陣したのち、の登場まで15年間余り、岸・・佐藤の出身者3名が総理総裁となった。 言論界の象徴として、からもその人格・識見を肯定的に評価された一方で、吉田内閣時代、1952年(昭和27年)の歴訪の途上、の拠るを訪問、総統・に謁見し、日華軍事同盟に言及したり、前述のように1954年(昭和29年)、戦前の情報局総裁の経験から政府直属の情報機関設置構想を打ち出したりしたため、当時のジャーナリズム主流派からは「的復活」と揶揄された。 CIAとの協力関係 [ ] 緒方はCIAの協力者であり、CIAが緒方政権擁立のために積極的な工作を行っていたとする説がある。 は、CIA初代局長だとされるが、高校・大学・朝日新聞時代の後輩だったとの関係を通して緒方を協力者に引き込んだとしている。 また、1952年10月の衆院選で当選し吉田内閣の官房長官に就任した緒方はただちにCIA局員と接触を開始し、 日本政界の情報提供及び、元陸軍中将の情報活動報告を条件として、 その見返りに日本版CIA設立を目的とした3万9458ドル(現在価値で約6000万円)の資金援助をCIAから受け取っており、CIAから資金提供を受けて活動した日本で初の政府高官が緒方であったと述べている。 らは2005年に機密解除された米公文書館の緒方ファイルを分析した。 その分析によるとCIAは1955年、当時の鳩山一郎首相がとの国交回復に意欲的なこと、をソ連が後押ししていると見たことから、日本の保守勢力の統合を急務と判断。 日本版CIA構想で高く評価していた緒方を後継の総理大臣候補として期待し、緒方に「POCAPON」(ポカポン)の暗号名を付け、地方遊説にCIA工作員が同行するなど、政治工作を本格化させた。 1955年2月の直前、緒方は選挙情勢について「心配しないでほしい」とCIA長官のに伝えるように要請し、翌日には「総理大臣になったら、1年後に保守絶対多数の土台を作る。 必要なら選挙法改正も行う」とCIA担当者に語った。 同年10月から12月にCIAは、ほぼ毎週緒方に接触する「オペレーション・ポカポン」(緒方作戦)を実行し、「反ソ・反鳩山」の旗頭として総理大臣の座に緒方を押し上げようとした。 緒方は情報源としても信頼され、提供された日本政府や政界の情報は、ダレスに直接報告された。 緒方が同年11月15日の保守合同のときに自由民主党総裁にならず翌1956年1月28日に急逝したことについて、「日本及び米国政府の双方にとって実に不運だ」とCIAは報告している。 また、ダレスは緒方の遺族に弔電を打っている。 なお、当時のCIAは秘密組織ではなく、緒方も自覚的なスパイではない、と加藤哲郎は述べている。 2017年に公開されたCIA機密文書(1952年6月18日機密指定)によれば、講和条約発足後に昭和天皇が退位して、緒方がかつて教師役をつとめたことがあり友好関係を持つ明仁皇太子に譲位し、それに伴い吉田茂首相も辞任、後継に緒方が首相に就任する(1953年の下旬から1954年の上旬)との見通しをCIAが持っていたことが明らかになった。 しかしその情報源が、緒方に近いグループに属する日本人から聞いたという中国国籍の人物だったため、政局を有利に展開させるための緒方派による情報工作の可能性があるとして、この譲位問題に関する情報価値は未確定であるとCIAに分析されている。 栄典 [ ]• (昭和15年) - 著作 [ ]• 『朝日常識講座 第4巻 議会の話』(、1929年)• 『人間 』(鱒書房、1951年/、1988年)• 『一軍人の生涯』(新社、1955年/光和堂、1983年) 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• 『官報』第5698号、昭和21年1月14日。 編『修猷山脈』(1971年)より。 『』早稻田大學校友會、1928年、36頁。 朝日新聞百年史編修委員会編『朝日新聞社史 大正・昭和戦前編』(朝日新聞社、1991年)。 美土路昌一「二人だけの話」(編『回想の緒方竹虎』東京と福岡社、1956年)。 里見脩『新聞統合 戦時期におけるメディアと国家』(勁草書房、2011年)• 『新聞 資本と経営の昭和史 朝日新聞筆政・緒方竹虎の苦悩』(朝日新聞社、2007年)。 今西光男『占領期の朝日新聞と戦争責任 村山長挙と緒方竹虎』(朝日新聞社、2008年)。 栗田直樹『緒方竹虎』(吉川弘文館、2001年)。 緒方竹虎伝記刊行会編『緒方竹虎』(朝日新聞社、1963年)。 升味準之輔『戦後政治 1945-55年 下』(東京大学出版会、1983年)。 「日本を動かしたスパイ 第三回 アレン・ダレス アメリカの金融資本のために天皇制を守った男」有馬哲夫(『』 2016年5月号)• 「日本を動かしたスパイ 第五回 ポール・ブルーム 日本を愛し過ぎてしまったアメリカ諜報員」有馬哲夫(『SAPIO』 2016年7月号)• 「日本を動かしたスパイ 第二回 緒方竹虎 日本版CIAを夢見た男。 「CIA:緒方竹虎を通じ政治工作 50年代の米公文書分析」(『』 2009年7月26日閲覧)• (『』 2017年2月10日号)• (「エコーニュースR」 2017年1月30日閲覧)• 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。 参考文献 [ ]• 緒方竹虎氏述「明治末期から太平洋戦争まで」(朝日新聞社史編修室、1951年)• 桜井清編『回想の緒方竹虎』(東京と福岡社、1956年)• 『人間緒方竹虎』(四季社、1958年)• 『実録朝日新聞』(、1958年)• 同上『朝日新聞外史〈騒動の内幕〉』(、1965年)• 『緒方竹虎』(、1962年)• 緒方竹虎伝記刊行会編『緒方竹虎』(朝日新聞社、1963年)• 『小説朝日人』(八木書店、1968年)• 『戦後政治 1945-55年 下』(、1983年)• 『評伝緒方竹虎 激動の昭和を生きた保守政治家』(、1988年/、2006年)• 同上『緒方竹虎』(吉川弘文館「」、2001年)• 『遙かなる昭和 父・緒方竹虎と私』(朝日新聞社、2005年)• 『緒方竹虎 リベラルを貫く』(、2006年)• 今西光男『新聞 資本と経営の昭和史 朝日新聞筆政・緒方竹虎の苦悩』(朝日新聞社、2007年)• 同上『占領期の朝日新聞と戦争責任 村山長挙と緒方竹虎』(朝日新聞社、2008年)• 『CIAと戦後日本』 (、2010年)• 『緒方竹虎とCIA アメリカ公文書が語る保守政治家の実像』 (、2012年) 関連項目 [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。 (演:)• (演:) 外部リンク [ ]• 公職 先代: () 1952年 - 1954年 次代: 先代: 第8代:1954年 次代: 先代: 第10代:1952年 - 1953年 次代: 先代: 第52代:1945年 次代: 先代: 総裁 第6代:1945年 次代: 先代: 総裁 第4代:1944年 - 1945年 次代: 党職 先代: 結成 1955年 - 1956年 次代: (総裁) 先代: 結成 初代:1955年 - 1956年 次代: 先代: 第2代:1954年 - 1955年 次代: へ.

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「いだてん」に堂々と出る企業名「朝日新聞」。特定企業名を使っていいのかNHKに聞いてみた。(木俣冬)

田畑政治 朝日新聞

NHK大河ドラマ「いだてん」のモデル・田畑政治(たばた・まさじ)の生涯を描く立志伝の後半です。 前半は「」をご覧ください。 国際舞台への復帰-フジヤマのトビウオ 日本がオリンピックに参加するためには、各種競技が国際連盟に復帰し、日本オリンピック委員会が国際オリンピック委員会(IOC)に認められなければならなかった。 そこで、昭和24年、永井松三がIOC総会に出席して日本のオリンピック復帰を訴えると、IOC総会はオリンピック復帰の前提として、各競技の国際連盟への復帰を勧告した。 この勧告を受けた田畑政治は国際水泳連盟に強く働きかけた。 これに協力してくれたのが、水泳の日米交流で田畑と親交のあるアメリカ水泳のキッパス監督である。 キッパス監督は「日本水泳連盟は戦時中、会費を払っていなかったので資格停止となっただけでとなっただけなので、会費を納めれば、自動的に国際水泳連盟に復帰するのではないか」と言い、資格停止処分を会費滞納へとすり替えるという詭弁で、国際水泳連盟に働きかけてくれたのだ。 田畑政治は戦前から国際水泳連盟と親密にしていたことも功を奏し、国際水泳連盟が親書で決議を取るという特別な計らいをしてくれ、日本水泳連盟は昭和24年6月に国際水泳連盟へ復帰した。 これに喜んだハワイの日系人が、日本水泳連盟の国際水泳連盟を記念して、日本チームをハワイに招待したい誘ってくれた。 田畑政治は、これを利用して、アメリカ本土まで足を伸ばし、ロサンゼルスで開催される水泳大会への参加を計画する。 しかし、日本はアメリカの占領下にあり、色々な規制を受けており、外貨おなく、メリカ遠征など夢の又夢という話だった。 ところが、田畑政治は、GHQの総司令官ダグラス・マッカーサーはアムステルダム・オリンピックで選手団長を務めるほど、スポーツに理解がある事を知っいた。 そして、方々に働きかけた結果、マッカーサー元帥の許可がおり、マッカーサー元帥から直々に「徹底的にアメリカ選手をやっつけろ。 手心を加えるな。 真剣な態度で立ち向かい、これを打ち破ることこそ、スポーツマンにとって最高の礼儀である」と激賞されて、日本水泳チームはロサンゼルスの大会に出場することだが出来た。 さて、ロサンゼルスで協力してくれたのが、アメリカ在住の日系2世フレッド・イサム・ワダ(和田勇)である。 フレッド・イサム・ワダ(和田勇)はスーパーの経営で成功しており、日本水泳チームを自宅に泊めてくれた。 そして、フレッド・イサム・ワダ(和田勇)のおかげで、日本人選手は日本食を食べることができ、日本水泳チームはロサンゼルス大会で本領を発揮し、古橋廣之進と橋爪四郎が同大会で数々の世界記録を樹立。 特に古橋廣之進は「フジヤマのトビウオ」としてアメリカを驚愕させた。 日本水泳の活躍によって、日本人はアメリカ人に認められ、日系二世への差別も無くなっていった。 日本水泳は日系人に大きな勇気と希望を与えた。 一方、マッカーサー元帥はオリンピック委員に日本のIOC復帰を要請していた。 また、日本水泳の活躍によって世界の日本に対する世論が代わり始めたので、国際オリンピック委員会(IOC)は、態度を一転させ、「日本を除名した事実は無い」と表明し、日本はIOCに復帰したのである。 さて、古橋廣之進と橋爪四郎の活躍もあり、田畑政治は日本での水泳大会の招致に成功し、昭和25年に日本で水泳大会が開催された。 この大会で日本はアメリカに惨敗してしまうが、大勢の観客が訪れたことにより、日本水泳連盟はオリンピックに向けての潤沢な資金を得ることが出来た。 そして、日本は昭和27年のサンフランシスコ平和条約によって独立国となり、同年のヘルシンキ・オリンピックで、オリンピックに復帰を果たす。 ヘルシンキ・オリンピックでは、レスリングの石井庄八が戦後日本初となる金メダルを取得したが、日本水泳陣は銀メダル止まりと振るわず、「フジヤマのトビウオ」の異名をもつ古橋廣之進も不調でメダルを逃がした。 スポンサードリンク 朝日新聞から追放される 戦後の戦争責任問題で朝日新聞の幹部が退陣したため、田畑政治は、みんなに推されて、昭和22年に朝日新聞の取締役に就任して朝日新聞東京本社の代表を勤め、昭和24年には常務取締に就任していた。 しかし、昭和26年に公職追放を解除された村山長挙が朝日新聞の会長に復帰すると、村山長挙は社長の長谷部忠に田畑政治の解任を要求した。 社長・長谷部忠は不当を訴えて、田畑の解任を拒否し、昭和26年に退陣した。 田畑も翌年の昭和27年に朝日新聞を辞めた。 そして、昭和27年、田畑政治は選手団長として日本人選手を率いてヘルシンキへと乗り込んで、レスリングの石井庄八が戦後初となる金メダルを取得したが、日本水泳陣は振るわず、銀メダル止まりとなった。 しかし、その一方で、田畑は大きな収穫を得ていた。 東京オリンピックの野望 ヘルシンキ・オリンピックから帰国した田畑政治は、突拍子も無い事を提案する。 東京オリンピックの開催するというのだ。 田畑政治は終戦直後から、オリンピックの開催を考えており、ヘルシンキ・オリンピックは規模が大きくなかったので、この程度の規模なら日本でもやれるという勇気を得て帰国したのだ。 しかし、東京でオリンピックを開催するには莫大な金が要る。 田畑政治は金の問題でオリンピック招致について口を閉ざした。 このようななか、昭和28年、ヘルシンキ・オリンピックの組織委員会の会長を務めたフレンケルが来日して、田畑政治・東竜太郎と会談する。 フレンケルは、田畑らがオリンピックの開催を考えていることを見抜いており、「オリンピックは金になる」と言い、ヘルシンキもオリンピックの開催で観光収入が増えて儲かっていることを明かし、熱心に2人に東京での開催を勧めた。 これを受けて田畑政治は、東京都知事の安井誠一郎や総理大臣の岸信介を説得し、東京オリンピックの招致は都議会で可決、衆議院でも可決され、東京オリンピックの招致が国家事業として動き始めたのであった。 高石勝男の反乱 田畑政治は、昭和31年のメルボリン・オリンピックでも選手団長として日本人選手を指揮したが、日本水泳は金メダルを確保したものの、全体的に成績は悪かった。 そのようななか、水面下で動いていた関西支部長・高石勝男が反旗を翻したのである。 元々、高石勝男は兄と事業をしていたが、現役時代は水泳の名選手として名を馳せてお入り、田畑はその経歴を買われて、関西支部長を任されていた。 戦前の栄光もむなしく、戦後の水泳界は成績が低迷していたことから、日本水泳連盟は高石勝男にメルボリン・オリンピックの監督を要請したのだが、高石勝男は耳病を理由に断った。 しかし、これが高石勝男を刺激したのか、高石勝男は田畑政治の中央集権体制など、蓄積していた数々の不満を爆発させ、水面下で打倒田畑を画策したのである。 そして、高石勝男は、メルボルン・オリンピックの翌年の昭和32年に、日本水泳連盟の会長選に立候補したのだ。 現職会長の田畑政治が再選すると考えられていたので、高石勝男の立候補によって、水泳界は真っ二つに分かれて大混乱に陥った。 これは「日本水泳界の汚点」となった。 結局、田畑政治が1年で辞任するという密約によって事態の収拾が図られ、田畑が再選するが、田畑は1年後に混乱の責任を取る形で日本水泳連盟の会長を辞任し、東京オリンピックの招致に専念するのであった。 スポンサードリンク 東京招致に向けて 昭和30年にIOC会長ブランデージが来日して、東京にオリンピックを招致したいのであれば、昭和35年のオリンピックに立候補して、昭和39年のオリンピックを狙いなさいと助言した。 ヨーロッパ諸国は遠征費の関係で、2度続けてヨーロッパ以外でオリンピックを開催する事を嫌っており、昭和35年のオリンピックはローマ開催が濃厚だった。 このため、東京が立候補しても負けは確実だが、立候補しておくことで、東京もオリンピックを開催する意向があるというアピールになり、昭和39年のオリンピックが狙えるのだという。 こうして、東京は昭和35年のオリンピックに立候補して、アピールに徹し、予定通りにローマに負けて、昭和39年のオリンピック開催を狙うのだった。 東京オリンピック招致活動 祖国思いの日系2世フレッド・イサム・ワダは、田畑政治に請われ駐米委員となっており、東京開催に向けて並波ならぬ情熱を燃やしていた。 その熱意を受けた総理大臣・岸信介は、フレッド・イサム・ワダを東京オリンピック準備委員会の委員に任命して、投票の要所である中南米訪問の全権を委任した。 こうして、フレッド・イサム・ワダは中南米10カ国11都市を私費で訪れて、各国のIOC委員に東京開催への協力を依頼し、確実に9票、上手くいけば10票が得らるだろうという好感触を得た。 一方、ヨーロッパでは貴族が投票権を持っていたことから、「プリンス・タケダ」こと竹田恒徳(日本オリンピック委員会会長)は、元皇族という経歴を活かし、ヨーロッパ方面で東京招致活動に活躍する。 さらに、竹田恒徳は、ブリュッセル(ベルギー)から、今回の立候補はアピールであり、本当に狙っているのは次ぎのオリンピックという本心を引き出し、事実上のベルギーからの投票の確約を得ることにも成功する。 東京オリンピックを勝ち取る オリンピック招致を勝ち取るには、国際オリンピック委員会(IOC)総会のプレゼンテーションでIOC委員に好印象を与えなければならない。 そこで、田畑政治は、IOC委員にはフランス語が分かる人が多いことから、フランス語で東京招致のプレゼンテーションを行おうと考え、フランス語が堪能でスポーツにも理解がある外務省官房総務参事・北原秀雄にプレゼンテーションを依頼した。 北原秀雄は、プレゼンテーションを引き受けたが、運動会のリレーでアキレス腱を切って負傷してしまったので、代わりとして、NHK解説委員として活躍している先輩・平沢和重を紹介した。 平沢和重は、オリンピック招致を時期尚早として批判していたため、簡単には引き受けてくれなかったが、北原秀雄の後押しもあり、自分で原稿を作ることを条件に、プレゼンテーションを引き受けた。 こうして、日本は昭和34年のIOC総会に出席し、平沢和重がプレゼンテーションを行った。 幸運なことに、東京の前にプレゼンテーションを行ったデトロイトが、45分の持ち時間を超過して1時間もプレゼンテーションを行ったうえ、原稿を棒読みするという失態を犯しており、IOC委員たちは辟易していた。 そこへ、平沢和重がわずか15分という短いプレゼンテーションで、見事に東京開催のメリットをアピールしたのである。 オリンピックの五輪は五大陸を表しているが、まだアジアではオリンピックは開催されていなかった。 そこに日本の勝機があった。 このプレゼンテーションが功を奏し、日本はライバルの「デトロイト」「ウィーン」「ブリュッセル」に圧勝し、日本は東京オリンピックを勝ち取ったのだった。 さて、東京オリンピックの開催が決定すると、田畑政治は早々に東京オリンピック組織委員会を発足し、事務総長に就任した。 そして、田畑政治は、東京オリンピック開催に向けた準備を開始し、昭和35年のローマオリンピックでは、選手団長を譲り、東京オリンピックを成功させるために視察に専念した。 スポンサードリンク 女子バレーと柔道の採用 田畑政治は、日本のメダルが増えるように、柔道と女子バレーボールをオリンピックの競技に採用するように強く訴えた。 男子バレーボールは既に競技に採用されているので、田畑の熱意を受けて、「東京だけの特例」として女子バレーボールは採用された。 このころ日本女子バレーボールは全盛期で、東京オリンピックで「東洋の魔女」として世界を恐れさせることになる。 一方、柔道は、柔道の創始者・嘉納治五郎が日本人初の国際オリンピック委員会(IOC)の委員として活躍しており、嘉納治五郎が昭和3年に柔道の採用を訴えて以降、柔道はオリンピック競技の候補になり続けていた。 そして、世界31カ国に柔道が普及しており、今回はヨーロッパ各国が田畑政治に柔道の採用を熱望したのである。 こうした経緯があり、日本が柔道を申請すると、反対者も居たが、各国の擁護が入り、柔道はオリンピック種目に採用されたのである。 第4回アジア競技大会事件 オリンピック大臣・川島正次郎は、池田総理も同意と言い、田畑政治にオリンピック組織委員会の会長・津島寿一を辞めさせるように求めたが、田畑は津島会長を守った。 そのようななか、東京オリンピックの2年後に控えた昭和37年(1962年)、インドネシアのスカルノ大統領(デビ婦人の夫)が国家の威信を賭けて、アジア17カ国から1400人を集め、首都ジャカルタで大々的に第4回アジア競技大会を開催した。 しかし、スカルノ大統領は、中国と親しいという政治的な理由から、台湾とイスラエルに招待状を出さなかった。 メンバー国に招待状を出さないのは、アジア大会憲章に違反しており、「スポーツと政治は別」という国際スポーツの精神にも違反していた。 事前に情報を得た田畑政治は、ジャカルタの大会組織委員会に問い合わせたところ、台湾とイスラエルに招待状を出さないというのはデマであり、一切のルール違反はしていないという回答だった。 この回答を受けた田畑政治は、時間の猶予が無かったので、確認を取らないまま日本選手団を率いてジャカルタへと向かったが、ジャカルタに付いてから、台湾とイスラエルに招待状を出していないという違反が判明したのである。 こうした事態に対して、国際陸上連盟が各国に警告を送ったが、この警告はあくまでも「出場しても公式大会として認めない」という意味合いのものと考えられた。 しかし、日本では、国際陸上連盟オブザーバーの浅野均一が「台湾、イスラエルが参加しない限り国際陸連としては大会を認めることはできない。 したがって、このアジア大会の陸上競技に参加したものは除名する」と表明した。 戦後、日本がオリンピックに復帰する条件として、国際オリンピック委員会は各競技の国際連盟への復帰を勧告しており、日本陸上連盟が国際陸上連盟から除名されれば、東京オリンピックに影響が出ると考えられた。 このため、日本国内では「大会憲章に違反した大会に出場すれば、日本も同罪。 オリンピック開催国として世間に示しが付かない」「このままでは日本は国際オリンピック委員会から除名される。 そんなことになれば、東京オリンピックを取り消されてしまう」という論調が起きていた。 一方、国際オリンピック委員会は「(特定の国を排除した大会に)オリンピック旗をかかげることは許されない」と表明するに留まった。 兎にも角にも、台湾とイスラエルが参加すれば、大会は正常化するため、田畑政治は大会正常化に向けてジャカルタ側と協議したが、ジャカルタ側は「台湾とイスラエルに招待状を送った」の一点張りで、話し合いは進まなかった。 ジャカルタ入りしたオリンピック大臣・川島正次郎は、スカルノ大統領と故意にしていたことから、スカルノ大統領の顔を潰すことはできないため、厳しい判断を迫られたが、日本国内の世論あり、大会不参加を主張した。 一方、大会に参加するアジア各国は、日本の動向をうかがっており、日本の決定に追従しようとしていた。 既に、インドの大使館に投石が行われたり、日本選手団の幹部が滞在するホテルに暴徒が進入したりしており、日本が撤退すれば、第4回アジア競技大会が中止になり、ジャカルタで暴動が起きることは目に見えていた。 そこで、ジャカルタに居る日本選手団の幹部の大半は、大会に出場しても国際陸上連盟の除名は無いと考え、ジャカルタで暴動が起きそうな事情もあったので、大会への参加を決定する。 最終的に田畑と川島正次郎が話し合い、田畑は「日本がルール違反したわけではないので、罰せられるのであれば、インドネシアだ」と説得し、川島正次郎の最終判断により、日本は第4回アジア競技大会に出場した。 韓国だけは大会から撤退したが、アジア各国は、日本が国際陸上連盟から批難されることがあれば、日本を擁護する方針で一致し、第4回アジア競技大会に出場したのだった。 田畑の失言 第4回アジア競技大会を終えて一足先に帰国したオリンピック大臣・川島正次郎は、マスコミにしたいして、「インドネシア国民は大会に熱狂しており、日本が引きあげれば、とんでもない事態になりかねなかったのが、現地の事情があった」と釈明した。 その後、帰国した田畑政治も「私たちの行動と国民感情の間に大きなギャップがあることは認める。 しかし、現地の実情を分かってもらえれば、取る道はあれしかなく、全体的によかったと、納得していただけよう。 いま考えてみても、あれが最善のやり方だった」と釈明した。 しかし、国際陸上連盟の意向を無視して出場したことについて、田畑政治は「際競技会(親善試合)として、日本陸上も参加した」と釈明してしまった。 実は、大会開催前に、国際陸上連盟が第4回アジア競技大会を親善試合にするように要請しており、田畑政治の釈明は国際陸上連盟の総会でするべき釈明だったのである。 明らかに失言だった。 このチャンスを見逃さなかったのが、オリンピック大臣・川島正次郎である。 以前、川島正次郎はオリンピック組織委員会の会長・津島寿一を排除しようとしたが、田畑政治に抵抗されて、失敗していた。 そこで、川島正次郎は、今回の田畑の失言を利用して、責任問題を煽り立てたのである。 こうして、川島正次郎の画策によって、「日本に追従して大会に参加したアジア各国への責任」「インドネシアを怒らせるのではないか」「こんな優柔不断な人間に東京オリンピックを任せられない」という批判が続出した。 翌日、田畑は「陸上は国際競技として行われたのではない。 実際は第四回アジア競技大会の一部門として陸上に出場した」と釈明し、「前日の談話は私の説明不足だった」と前日の談話を撤回した。 しかし、経済界から責任問題を追及された会長・津島寿一は辞任。 田畑政治も従兄弟の水野成夫(フジテレビの創業者)からの助言を受けて辞任を決意した。 そして、田畑政治は「レールは敷いた。 後は誰が事務総長をやっても、事務局さえシッカリしてくれれば出来る」「東京オリンピックの種は俺がまいたんだ。 俺が刈り取りたかった」と言い、我が子を奪われるような気持ちで、昭和37年に東京オリンピック組織委員会の事務総長を辞任したのだった。 後日、田畑政治は、朝日新聞時代の同僚・細川隆元から「あの時のしっぺ返しを受けたんだよ」と言われ、事情を教えられた。 実は、東京オリンピックの予算を話し合う会合で、川島正次郎が予算のことで横槍を入れてきたため、田畑は怒って「スポーツの専門家でもないのに、つべこべ言うな。 第一、都知事選の時も資金調達が上手くやれず、よくあれで幹事長が務まるものだ」と批判したことがあった。 川島正次郎は、これを根に持っており、今回の責任問題に繋がったのだ。 さて、田畑政治は、東京オリンピック組織委員会の事務総長を辞任しても、東京オリンピック選手強化対策本部の本部長も兼任していたので、今度は選手の強化に専念するために奔走する。 しかし、「寝業師」と歌われた政治家・川島正次郎の策謀は、それに留まらず、各方面へ根回ししており、田畑政治は選手強化対策本部の本部長からも追い落とされて、常任顧問に就いたが、間もなく常任顧問の肩書も奪われてしまったのである。 田畑は東京オリンピック組織委員会の委員として残ったが、積極的な発言はせず、選手を激賞してまわった。 そして、国際陸上連盟の総会で日本の責任問題は出ず、昭和39年に東京オリンピックは無事に開催され、田畑は東京オリンピック組織委員会の最前列で身を乗り出して選手を応援したのだった。 スポンサードリンク その後 東京オリンピックは無事に終わったが、水泳ニッポンの栄光は見る影も無く、日本水泳陣は惨敗した。 そこで、田畑政治は、水泳ニッポンの復権を目指し、日本水泳連盟の改革に着手して、10カ年計画を掲げた。 室内プールがほとんど無かった昭和43年に東京スイミングセンターを完成させ、水泳選手の育成に励んだ。 その一方で、田畑政治は、昭和40年に日本体育協会の理事に就任、昭和41年には札幌冬季オリンピック組織委員会の顧問に就任。 昭和44年には東京オリンピック招致の功績が認められ、勲二等瑞宝章を受章する。 そして、昭和47年開催の札幌オリンピックでも尽力し、昭和48年に日本オリンピック委員会の会長に就任。 国際オリンピック委員会(IOC)から離脱していた中国のIOC復帰に貢献した。 晩年の田畑政治は、パーキンソン病を発症しながらも、日本オリンピック委員会を日本体育協会から独立させるために奔走したが実現せず、政治的な背景から、日本体育協会の指示で昭和55年のモスクワオリンピックをボイコットするという事態を招いた。 そして、昭和57年に東京スイミングセンターの会で、食べ物を喉に詰まらせて順天堂医に運ばれたが、酸欠のため脳の一部に障害が残り、車いす生活を送った。 昭和59年7月、ロサンゼルス・オリンピックの直前で危篤状態に陥り、医師から覚悟するように言われるが、田畑安治は奇跡的に復活し、病室のテレビで、ロサンゼルス・オリンピックを開会式から閉会式まで観戦して涙を浮かべた。 そして、閉会式の2週間後の昭和59年(1984年)8月25日に、入院先の順天堂医院で死去した。 享年87。 死後、正四位勲二等旭日重光章に叙された。

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田畑政治

田畑政治 朝日新聞

浜松町成子(現・成子町)出身。 長きに渡り会長を務めた他、の招致活動におけるキーマンの一人として知られている。 朝日新聞社時代の田畑(1929年) 田畑は(31年)、浜松町成子(現・浜松市成子町)にて生まれた。 実家は造り酒屋であったという。 実家の跡地は現在に面した浜松成子町店となっている。 、(現・東京大学教養学部)を経て、法学部政治学科を卒業後 、(13年)に()に入社する。 その後は政治経済部長などを務め、(22年)に東京本社代表に就任し 、(24年)に常務に就任した。 新聞記者としてはを体当たり取材し、朝日新聞社が右翼の襲撃を受けるような記事を書いた。 この時、多額の過勤料を支給されたが、実家が裕福で給与に無関心であったため、初めて朝日新聞社に過勤料という制度があることを知った。 また大阪をエリアとする放送局であるが設立される際には、常務取締役時代の田畑自身が東京と大阪を往復するなどして奔走したと伝わり、朝日新聞社から朝日放送へ移籍する社員については「本社からの出向という形」にすることを田畑が認めたという記録が残っている。 1952年2月22日、田畑は朝日新聞社を退社した。 (昭和28年)のに、朝日新聞社時代のかつての上司だったが所属している公認でから立候補し、30,345票を獲得するも次々点で落選した。 スポーツ指導者として [ ] 一方で、田畑は水泳指導者としても活動し、(昭和7年)のなどの大きな大会で日本代表の監督を務めた。 新聞記者でありながら水泳に全力を尽くせたのは、上司の緒方の理解があったからである。 (昭和14年)には、日本水泳連盟(当時の名称は大日本水上競技連盟)会長のが大日本体育会(後の)理事長に就任したことから、田畑も末弘を支えるべく新たに設けられた理事長に就任した。 戦後の(昭和23年)には日本水泳連盟の会長に就任、同年の参加を断られた当時の日本代表(・ら)の実力を見せつけるべく、日本選手権の決勝をロンドン五輪と同日開催とする などの策士ぶりを発揮、翌(昭和24年)の(FINA)復帰につなげるなど大胆な組織運営を行った。 その後も田畑は(昭和27年)の、(昭和31年)のと二大会連続で日本選手団の団長を務めた。 戦後間もない時期から東京へのオリンピック招致を訴えており、五輪招致活動においては中心人物の一人として以前から親交のあったなどの人物を招致委員に引き込むなど活躍する。 (昭和34年)に1964年(昭和39年)のが決定すると 、田畑もその組織委員会の事務総長に就任し開催に向けて活動した。 正式種目に女子を加えるロビー活動の陣頭指揮にも立ったという。 だが、1962年(昭和37年)のでホスト国のがとの参加を拒否し、それに対して(IOC)がこの大会を正規な競技大会と認めないという姿勢を打ち出したことで日本選手を出場させるべきかという問題に巻き込まれることになった。 最終的に日本選手団は(競技自体が中止された)を除いて出場したものの、この問題の責任を取る形で田畑もJOC会長で組織委員会会長のとともに辞任することとなった (組織委員会事務総長はが後継)。 この時の心情について、後年自らの著書に「血の出る思いをして、われわれはレールを敷いた。 私が走るはずだったレールの上を別の人が走っている」と記している。 田畑は東京オリンピックにおける競泳陣惨敗を受け、水泳日本復活に向けた強化策として(昭和43年)の設立に関わった。 のちに東京スイミングセンターから・・ら複数のオリンピックメダリストが誕生した。 その後、田畑はにも関わり 、(昭和48年)には出身のの後を受けて第10代(JOC)委員長 に就任した〈 - (昭和52年〉)。 (昭和59年)、85歳で死去した。 田畑の棺はオリンピック旗で覆われた。 河野一郎との関係 [ ] とは朝日新聞社の同僚であったが、田畑は政治部、河野は経済部(農政担当)に所属し、スポーツでは田畑が水泳、河野がと対抗する場面が多かったため、世間からは「犬猿の仲」と思われていた。 しかし実際には朝日新聞社時代の河野とほとんど会話する機会がなく、一緒に食事をしたこともなかったといい、不仲説は世間が作り出したイメージであった。 田畑と河野の深い関係が始まるのは、が解除された河野が、追放中の兄の一郎の代役でで当選していた弟の(兄の没後に会長を引き継ぐ)との間で国政選挙の選挙区調整が必要になった際に田畑が兄弟間の仲介を行ってからである (田畑は河野謙三と親しかった。 これ以降、田畑は河野一郎の会長就任時に祝辞を述べたり、2人で日本スポーツ界の改革のためにを改正しようと画策したりした。 競馬法改正のもくろみは、河野の死によって実現できなかった。 親族 [ ] 長男に元理事の田畑和宏がいる。 関連作品 [ ] 映画• 『』(、演:) テレビドラマ• 『1964東京五輪を招致せよ 〜祖国復興に賭けた男達〜』(、演:)• 開局55周年記念スペシャルドラマ『』(、演:)• www. city. hamamatsu. shizuoka. 2019年3月4日閲覧。 杢代哲雄『評伝 田畑政治』(国書刊行会、1988年、新装版2018年)に詳しい。 浜松経済新聞. 2019年2月5日. 2019年7月10日閲覧。 笹川スポーツ財団. 2019年12月19日閲覧。 朝日新聞社. 1-3. 2019年12月1日閲覧。 国立国会図書館デジタルコレクション. 衆議院議員総選挙 第26回. 衆議院事務局. 233 1953年10月. 2019年10月27日閲覧。 , p. 131. - 国際留学生協会• Stefan Huebner, Pan-Asian Sports and the Emergence of Modern Asia, 1913-1974. Singapore: NUS Press, 2016, 147-173ページ所収. - 産経ニュース 2013. 237. , pp. 237-238. , p. 238. , pp. 238-239. , pp. 239-240. 朝日新聞、2018年8月5日 参考文献 [ ]• 杢代哲雄『評伝 田畑政治 オリンピックに生涯をささげた男』〈新装版〉、2018年6月25日、289頁。 外部リンク [ ]• - 浜松市 先代: 委員長 10代:1973年 - 1977年 次代:.

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